拝む手に つたわるみ名の あたたかさ
高木明義・作

人間の愚かさや人間だけがもつ罪業性(ざいごうせい)は日頃、聞法(もんぽう)をとおして、学び、教えられることはありますが、わが身のうえにそのことを自覚し、懺悔(さんげ)する人のないことを、阿弥陀(あみだ)は人間の心と一つになって、大悲(だいひ)という()心で私どもを促します。

数年前、岐阜の高山別院へ参詣をしたとき、たしか、そのときは私一人であったかと思われます。本堂の障子を開けて入りますと、阿弥陀さんの真ん前に背中を丸く抱え込むようにした、年のころ80歳ぐらいのお婆さんが一人、数珠を手に合掌し、ひたすら首をふりながら頭を垂れている姿に出会いました。静まりかえった広い本堂に、かすかに響くお念仏の声。手を合わせ身を投げざるを得ない、ご自分の罪業の深さを懺悔されていたのでしょう。その姿になんともいえない美しさと、遠く離れている私をも包むような(ぬく)もりをおぼえたことを、今でもはっきりと憶えています。ちょうど、インドの修行僧が五体(ごたい)投地(とうち)するように、体を抱え込むお婆さんの姿から、さまざまな長い人生体験とそのご苦労の跡が伝わってくるようでありました。

静まりかえった広い本堂に、かすかに響くお念仏の声。手を合わせ身を投げざるを得ない、ご自分の罪業の深さを懺悔されていたのでしょう。
静まりかえった広い本堂に、かすかに響くお念仏の声。手を合わせ身を投げざるを得ない、ご自分の罪業の深さを懺悔されていたのでしょう。

手にする数珠は古来、人間の煩悩を表すと教えられています。百八個の煩悩といわれていますが、煩悩は一つ、一つ数えることのできるようなものではありません。人間そのものが煩悩であり、大悲の光に照らされてみればきわめて明瞭(めいりょう)です。数珠は人間の手をとおして人間の罪業をわが身のうえに知らしめ、五体投地して懺悔する以外に、真の人間の道はないと教えている、大切な仏そのものであることを、我々は忘れております。

高山別院でのお婆さんとの出会い以来、京都の真宗本廟(ほんびょう)や別院の仏事にお参りをしますと、合掌してひたすら念仏を称えるお年寄りたちの背中から、なにか、香りのようなものを感ずるようになりました。また、その人たちの人生そのものを思いはかるように、「このお婆さんはさぞかしご苦労なさったんだろうな」、「この人は今どんな問題をかかえているのかな」といろいろ拝見させていただくこともあります。このようなお年寄りたちが、ご自分のさまざまな人生体験を縁にして、間違いなく念仏の教えを受け伝え、そしてまた、念仏の法義(ほうぎ)相続者として、今日の教団を築いてこられた歩みとご苦労に、ただ頭が下がる思いであります。

「人間が生まれて何か偉いことをするのではない、念仏とともに、宿業(しゅくごう)を果たす、というただこれだけのことに、かたじけないほどの価値がある」という安田(やすだ)理深(りじん)先生の言葉が思い出されます。

親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)はこのようなお年寄りを「染香人(ぜんこうにん)」と呼ばれ、仏さまの香りに染まりながら、香りと一つになって歩むその道は「柔和(にゅうわ)な温もりのある世界」を開くと言われています。

蓮如(れんにょ)上人(しょうにん)は『御文(おふみ)』の中で、「うつくしき、仏となりて」という言葉をつかっておられます。私は長い間、この意味がわかりませんでしたが、高山別院で出会った忘れがたき光景や、お寺へ集うお年寄りたちの背中に、その「うつくしさ」をようやく学ぶことができました。

春秋 賛(金沢教区仙龍寺住職)
『今日のことば 2006年(9月)』
※役職等は『今日のことば』掲載時のまま記載しています。

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