1994(平成6)年 真宗の生活 6月
<「友引」は友を引く?>
「友引の日には葬儀をだすな」というのはちょっと考えても変な話だと思いませんか。しかし、この変な話が一般に通用するんですから始末が悪いのです。
こんなばかげた話の元になっているのが、神社庁発行の暦なのですが、このような暦はもともと中国から渡ってきたもので、それをもとにして日本人がつくりかえたものといわれます。
その暦のうえでも「友引」というのは、相引とか、勝負なし、とかいう意味なのですが、それに友引という字をあてて、その日に葬儀をだすと、死者が友を引いていくというような解釈をもちこんだのは、まったく日本流のゴロ合わせにすぎません。
さて こんなことをどれだけ詳しく説明してみても、実はあまり役にたたないのが現実のようです。「ああ、なんだそんなことか」と思っても、それなら実際に自分のこととして友引の日に葬儀をだせるかということになると、たちまち厄介なことになるのですね。
なぜそういうことになるのかといいますと、それはわれわれ自身の日ごろの生き方の根本に関係しているからです。理屈は分かつても実行できないというのは、自分自身の生き方が、本当に立つべきところに立つていないからなのですね。親鸞聖人は、仏教徒を名告る者が、もし日の吉凶に迷うのなら、仏教を表むき名告っていても、それは仏教とは似ても似つかぬものである、と厳しく自己批判されています。
そのことの意味をわれわれが受け止める場合、「親鸞聖人がそう言われている」からとか、「真宗では日の善し悪しは関係ない」とかいうような話ではないのだど思います。それはわれわれが、本当に仏教徒であるならば、そのようにはっきり言い切れる、ということなのです。
仏教の名で行われる葬儀が、仏説によらない神社庁発行の暦や、根拠のない迷信によつてまどわされている現実は、まことに悲じいことですが、そのことのなかでわれわれの仏教徒としてのあり方の真偽が問われているのです。
『真宗の生活 1994年 6月』 「「友引」は友を引く?」「『同朋新聞』から」