1994真宗の生活

1994(平成6)年 真宗の生活 8月
<お経はだれのためなのか>

(問) 亡き夫の四十九日法要を勤めた折、僧侶と親族一同での読経を聞いていると、夫がかわいそうになってきたのです。死者が人間社会の「おつきあい」に巻き込まれているようで……。

(答) 住職になって今年で三十年。私は今日まで、漢文の「お径」を棒読みしながら、数多くのお葬式などの「御仏事」に関わってまいりました。

その間、「お経」をあげる理由を問われたことはなかったように思います。多くの方々が、あなたと同じような疑問を持たれたでしょうが、今までに声を出しておっしやることをしなかったのはなぜでしょう。

その理由は二つあるように思います。その一つは、お葬式などの仏事が〈「死者」のための葬式〉になっていたこと。そして二つめは、あなたのおっしゃるように、〈人間社会のおつきあい〉として営まれているからでしょう。僧侶が葬礼に関わり「お経」の棒読みで事足りてきたのは、〈意味がわからない〉が故に、皮肉にも「死者」を送るにふさわしいものとなってきたからだったかもしれません。

それではむなしいではありませんか。御夫君を亡くされたあなたの「迷い」は、私を啓発してくださいました。おっしゃるとおりでございました。釈尊が問いとされ、阿弥陀のご本願との出通いを私に勧めてくださいましたのは、「やがて終わっていくいのちの悲しみを超え、まことのいのちに生きる道を見いだせ」ということであって、悲しみをごまかし、人生の大問題を糊塗して生きよ、ということではありませんでした。

その眼から尋ね直せば、本来「仏事」とは、いのちの大事さに気づき、この人生を深く生きるものとさせていただくという「事業」であったということです。御夫君を亡くされたあなたにとって、願われていたのはどんな「仏事」だったのでしょうか。

漢文の「お経」を棒読みする儀式を長年続けながら、私はお葬式をさせていただくに際して心掛けてまいりましたのは、悲しみをとおして、仏法との御縁を結んでいただきたいということです。そうでなくては、私たちの問題は少しも解決しないばかりか、せっかくの大切な人との出会いと別れも、ただむなしく終わってしまうと思うからです。

もっともこう申しながら、私はあなたから、「死者供養」となっている現状の行事は「仏事」であるといえるのかどうか、という大きな問いをいただきました。
これは私一人を超え、教団として、「お経」のことも含めて、お葬式や年忌法要が真の意味で「御仏事」となるような「改革」が求められ、願われていることを確認しなければならぬことだと思います。

『真宗の生活 1994年 8月』 「お経はだれのためなのか」「『同朋新聞』から」