現代人は何かを見失っている。しかし、それが何であるかを知らない
現代人は何かを見失っている。しかし、それが何であるかを知らない

こころに灯(ともしび)を、と言われる。私にとって灯とは何であるか。多くの場合、心の灯とはその人のもつ夢のようである。若人よ夢をもて、と言われる場合、人生の目的を立てて歩めという意味であろう。誰もがなしえないような快挙(かいきょ)に夢をかける人もある。大事業に夢をかけて生きる人もある。夢は、その人を育てるものであり、前進させる心の灯である。

しかし、そうしたことだけが心の灯だとすると、時がきたらその灯は消えてしまうのではあるまいか。夢がやがて消えていくように。若者には、それが彼を力づけても、年とともに失われていくことになるとか、選ばれた少数の人の灯ではあろうが、すべての人の灯とはなりえないだろう。

心の灯、それは自己自身を照らす光であることを忘れてはならない。現代に生きる人間としてこの光を見失ってはならない。科学文明が驚くほどに発達して、昔の人の知ることのできなかった環境が与えられ、幸せで便利な生活ができる時代に生きてはいるけれども、何か大きなものを忘れているような気がする。

「現代人は何かを見失っている。しかし、それが何であるかを知らない」

と言った人があるが、まさにそのとおりであると思う。それこそ、外へ外へと走り続けて、人間の内面を照す光を無視して生きてきた人間自らで招いた罰である。

大経(仏説無量寿経)に、すべての人の心に点ずる灯として如来の本願が説かれている。灯とは如来の本願である、と私はいただいている。人間性を的確にさぐりあてた言葉でこれ以上のものを知らない。如来が問題としたのは、人間を正しく救う、ということであるが、その本願の出発は、地獄・餓鬼・畜生を問題とされている。

悲しいことに、人間のもつ理知のからくりは何でも対象化しなければ認識できないところから、地獄の教えもわからないものとして過ぎてきたと思う。地獄とは地下にあって人間を拘束する者、と言われるから、生存を根底からとらまえて限定しているもののことである。ある人は、これを恐怖の対象として考えた。ある人は悪をいましめる荒唐(こうとう)な物語と思ってきた。

しかし、この如来の本願を自己自身を知らしめる不滅の灯としてかたじけなく一人がためとこれを受けとってくださったお方があったことを思うと、仏陀にとって人間存在とは、地獄・餓鬼・畜生の教えをもってよりほかにいいあらわすことができないほど底知れぬものなのであろう。
「汝は地獄の縛をおそるゝもこれは汝の舎宅なり」(正法念処経)

ここまでも人間存在を明らかに照らしてくださる光があろうとは考えたこともなかった。この光に遇うて、人間は罪業ふかき身であることにさめるのであり、この灯を自己として「できてくださった」と苅り取る稲にも謝する柔軟な人生をたまわる身となるのである。

『真宗の生活/今日のことば 1975年(11月)』 「こころに灯あれば いのちに光あり」