おはようございます。先般、5月20日、京都の真宗本廟で、全国の僧侶やご門徒の代表がたくさん参加される中、宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要の、真宗本廟お待ち受けの大会が行われました。そこで6年後の御遠忌の法要日程とともに、御遠忌テーマが発表されました。御遠忌の基本理念はすでに「宗祖としての親鸞聖人に遇う」という課題がたてられています。その基本理念を期して、ひとりでも多くの念仏者の生まれますことを願ってテーマがたてられました。テーマ、『今、いのちがあなたを生きている』もう一度ゆっくり申し上げます。『今、いのちがあなたを生きている』
今まさに、南無阿弥陀仏のいのちがあなたをつつみあなたのいのちとなって、生きていますよ、という如来からの呼びかけの言葉であります。普通、私が南無阿弥陀仏のいのちを生きるという表現ですが、そうではなく、私がという意識の前に、既にして、南無阿弥陀仏のいのちが、この私となって生きているということであります。自己中心的な我執(がしゅう)一杯の人間と、一つになって、内から照らし出してくださる光りのはたらきを「いのち」と表現いたしました。このような光に出会って生きておられる人を、善き人といい、その人の言葉に導かれ、言葉に包まれて生きることを、真の仏弟子、または、真宗門徒、先回からお話をしてきました凡夫と教えられています。このような人の誕生こそ願われることであります。そのような方をご紹介いたします。
金沢のあるお寺に高光かちよさんといわれる方がおられます。お年はもう90歳をすぎておられますが、あるとき、東京へご住職の用事で、たしか、七十過ぎであったかと思われます。老体の身でありながら、ひとり金沢から東京へ出かけられました。そのときの出来事を私たちに語ってくださったことがありました。東京に着いてから、目的地までの乗り物の具合がわからず、タクシーに乗りました。さっそく、目的地を告げたところ、運転手さんからの「はい、わかりました」の返事がありません。返事のないまま、車が動き出したのであわてて、目的地を告げ、返事を求めましたところ、おどろきの声が返ってきました。それは、「わしらは、あんたらをお客さんだと思っていない、荷物と思っている。だから荷物に口をきいたり、返事をする必要が無い」ときっぱりと言い切られ、身震いのするような、恐い思いをされたそうです。ところが、普通、我々ですと「私を荷物あつかいにするなんて」と喧嘩になるか、「こんな非常識な人間の車に乗るものか」と言って降りるか、どちらかですね。しかし、高光さんにそのとき、南無阿弥陀仏の智慧がはたらくのですね。まさに、そのいのちが高光さんと一つになって、次のような言葉を生み出すのです。「運転手さん、この荷物はね、遠い遠い金沢から電車にゆられ、古びて、もう、壊れそうになっています。だから、どうか、壊れないように、先ほど言いました目的地まで届けてくださいよ」と、荷物になられのです。そして目的地に着くと、運転手さんから「おばあちゃん、着きましたよ」と今までと違った声で言葉が返ってきました。お金を払い終えると、「おばあちゃん、気をつけてね」と、運転手さんから優しさあふれる人間らしい言葉がまた返ってきたという、実際に体験されたお話しをお聞きしたことがありました。「いのち」が、この私と一つになって生きるということは、ご縁にまかせて、いのちという智慧が自由自在に私の身に、はたらくということですね。そういうことを教えられる貴重なお話でありました。いのちが智慧となって、高光さんは荷物に成られ、そのことによって、今度は運転手さんが生きた人間にもどられた。ともに、人間に成るとは、このようなことだと思います。「今という、そのとき、いのちが自由にはたらき、人間に柔軟心、つまり柔らかき、こころを生ぜしめる」。まさに、いのちを生きるということですね。
6回にわたって、真宗の根本的な課題である『自己とはなんぞや』自分自身を深く知ることの大切さと、今回の御遠忌テーマを通して皆さんと共に学びながら、お話をいたしました。「人間の愚かさを知らされつつ、自信を持って凡夫と名のり、堂々と生きられたら、こんなに朗らかな明るい人生はないでしょう。」このような生き方を、「浄土を生きる人生」と教えられています。ありがとうございました。