浄土論
- 【原文】
天 親 菩 薩 造 論 説
帰 命 無 碍 光 如 来
【読み方】
天親菩薩、論を造りて説かく、
無碍光如来に帰命したてまつる。
「天親菩薩造論説」(天親菩薩、論を造りて説かく)とありますように、天親菩薩は、『浄土論』という「論」をお作りになりました。そして、阿弥陀仏の浄土のことについての教えを示されたのでした。
この『浄土論』は、『仏説無量寿経』にもとづいて説かれたものです。『仏説無量寿経』というときの「仏」は釈尊のことですから、それは「釈尊が無量寿についてお説きになられたお経」つまり「釈尊が阿弥陀仏について説いてくださったお経」ということになります。このお経に説かれた釈尊の教えについて、天親菩薩が独自の解説を加えられたもの、それが『浄土論』なのです。
『浄土論』は、くわしくは『無量寿経優婆提舎願生偈』といいます。「優婆提舎」は、インドの言葉「ウパデーシャ」の発音を漢字に写し取った言葉で、「論議」という意味です。『仏説無量寿経』の「論」ということになります。
さらに「願生偈」とありますが、この『浄土論』には、まず、天親菩薩が阿弥陀仏の浄土に生まれたいと願われた、そのお心を「偈」にして述べてあり、その後に、「長行」といわれる散文によって、その「偈」の意味するところを解説してあるのです。したがって往生を願われた「偈」と、その「偈」についての論議とを合わせたものが『無量寿経優婆提舎願生偈』ということになります。
『浄土論』は、私たちが依りどころにしております『真宗聖典』(135~145頁)に収載されています。その最初のところに、『無量寿経優婆提舎願生偈』という標題があります。そしてその下に、「婆藪槃頭菩薩造」とあります。これは、「天親菩薩が造られたもの」という意味です。「婆藪槃頭」は、「天親」のことですが、「ヴァスバンドゥ」というインドの言葉を「天親」とか「世親」とか、中国語に訳さないで、発音をそのまま漢字に写して表記したものです。
さて、『浄土論』によりますと、その冒頭に、「世尊我一心 帰命尽十方 無碍光如来 願生安楽国」(世尊、我一心に、尽十方 無碍光如来に帰命して、安楽国に生まれんと願ず)という四句があります。「尽十方無碍光如来」は、阿弥陀如来のことです。「帰命尽十方無碍光如来」は、十字の名号とされていますように、「南無阿弥陀仏」のことなのです。「阿弥陀仏に南無したてまつります」ということです。
天親菩薩は『仏説無量寿経』の教えについて論議・解説を加えられるに先立って、まず、「帰敬」のお心を表明されたのです。つまり、どのような気持ちで今から論を進めるのかという、ご自身の基本的な姿勢を明らかにしておられるわけです。
天親菩薩は、まず「世尊」といって、釈尊に向かって呼びかけておられます。そして、「私は心を一つにして、阿弥陀如来に帰命したてまつります。そして私は(釈尊のみ教えにしたがって)阿弥陀仏の極楽浄土に生まれたいと願っております」という、帰依の気持ちを表しておられるのです。
このあたりのことを、親鸞聖人は「正信偈」に「天親菩薩造論説 帰命無碍光如来」(天親菩薩、論を造りて説かく、無碍光如来に帰命したてまつる)と詠っておられるのです。
ここに、聖教に対する私たちの接し方がはっきりと教示されていると思います。私たちは、ややもすれば、「帰命」の心を抜きにして聖典を扱うことがあります。聖教の客観的、論理的な読み方も必要だと思いますが、その大前提に「帰命」の心がなければならないと、天親菩薩も親鸞聖人も教えておられるのです。
迷いばかりの凡夫が勝手に作り出した論理や学説のなかに、仏や菩薩のお言葉を引っ張り込んで、都合よくつじつまを合わせたり、判断を加えたりするようなことでは、せっかくの教えをまともに学ぶことなど到底できないということではないでしょうか。
私が勤めております学校の教室で、学生が『真宗聖典』を開く前に、いつも聖典を軽く押し頂く様子を見て、本人は何気なくやっていることかもしれませんが、すがすがしく感じさせられるのです。
大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘
< 前へ 第41回 次へ >