三不三信の教え
- 【原文】
三 不 三 信 誨 慇 懃
像 末 法 滅 同 悲 引
【読み方】
三不三信の誨、慇懃にして、
像末法滅、同じく悲引す。
「三不三信の誨」とありますのは、道綽禅師が、三不信と三信との区別をはっきりさせて、それを懇切丁寧に教えてくださった、ということです。「慇懃」というのは、懇切丁寧ということです。
天親菩薩は、『浄土論』の冒頭に、「世尊我一心 帰命尽十方 無碍光如来 願生安楽国」(世尊、我一心に、尽十方無碍光如来に帰命して、安楽国に生まれんと願ず)(『真宗聖典』135頁)と述べておられます。これは、天親菩薩が、遠い昔に亡くなっておられる釈尊に向かって、強い決意を表明されたものです。すなわち「私は、釈尊の教えにしたがって、一心に、阿弥陀仏に帰命して、極楽浄土に生まれることを願います」ということです。
ここに述べられた「一心に帰命する」というのは、他の何ものをも混じり合わせないで、ただひたすらに阿弥陀仏に帰依するという、深い信心を言い表されたお言葉です。
この『浄土論』に対して、曇鸞大師が註釈をお作りになりました。それが『浄土論註』です。曇鸞大師は、天親菩薩の「一心」を解釈されるのに、その信心の純粋さに驚かれたのでしょうか。そして、それに比べて、ご自分の信心の頼りなさを痛感されたのでしょうか。
曇鸞大師は、「一心」でない凡夫の信心を三つに開いて、「不淳の信心」「不一の信心」「不相続の信心」とされました。これが「三不信」です。「不淳」は、信心が純粋でなく、あるようにも見えるけれども、実はないに等しい信心です。だからその信心は「不一」なのです。自力のはからいが入り混じっていて、徹底していない信心です。したがって、そのような信心は、「不相続」なのです。徹底していないから、信心が持続しないのです。このような「三不信」でない「三信」が、天親菩薩の「一心」であると、曇鸞大師は教えられたのです。
曇鸞大師が述べられた「三不信」の反対側、つまり「三信」について、道綽禅師が『安楽集』のなかで、詳しく丁寧に説明なさっているのです。自力の信心が「三不信」であるのに対して、他力の信心は、純粋で混じりものがなく(淳心)、ふたごころがなくて散乱することもなく(一心)、一貫して持続する(相続心)と教えられるのです。
次の「像末法滅」は、「像法」と「末法」と「法滅」です。仏滅後の五百年は、教えが正しく伝わる「正法」の時代とされます。その後の一千年は像ばかりの教えが残る「像法」です。この時は、教えも修行も像ばかりですから、証が得られないのです。さらにその後の一万年が「末法」です。かろうじて教えは伝わっているけれども、行も証もともなわない時代です。その一万年が過ぎると、「法滅」となり、仏法は完全に衰滅するとされているのです。「法滅」の後は、やがて遠い未来に次の仏が世に出られて、また「正法」の時代に入るとされています。
道綽禅師は、ご自分が「末法」の世に生きていることを強く意識しておられました。そして、同じように、証が得られなくなっている「像法」と「末法」の世を悲しまれたのです。また仏法にまったく触れることができなくなる「法滅」の世についても、深く悲しまれたのです。
そのような時機には、凡夫の自力は、何の役にも立たないのですから、阿弥陀仏は、それを哀れんで、すべての人びとを救いたいという大きな願いを発しておられたのです。阿弥陀仏は、無量寿如来ともお呼びしますが、無量寿をそなえておられる阿弥陀仏は、「像法」「末法」「法滅」の世の人びとを浄土に迎え入れて救いたいと願われ、「南無阿弥陀仏」という念仏を授け与えておられるのです。これが他力の念仏です。そして、この他力の念仏を素直にいただこうとする心が、他力の信心です。
他力の信心をいただくのに、道綽禅師は、曇鸞大師が述べられた「三不信」と「三信」との意味を明らかにされ、「三信」によらなければならないことを丁寧に教えられたのです。
親鸞聖人は「同じく悲引す」と詠っておられるように、道綽禅師が、これらの時機の人びとを等しく哀れんで、他力の信心の教えに導き入れようとしてくださったと、讃えておられるのです。
大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘
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