善悪の凡夫人
- 【原文】
本 師 源 空 明 仏 教
憐 愍 善 悪 凡 夫 人
【読み方】
本師・源空は、仏教に明らかにして、
善悪の凡夫人を憐愍せしむ。
法然上人は、人が、次々に襲ってくる悩みや悲しみから、どのようにして解き放たれるのか、その道を真正面から学ぼうとされたのでした。
そのために、お若いころから、比叡山で、天台宗の修行や学問に励まれたのでした。そして、まれに見る逸材として、比叡山の誰からも一目も二目も置かれるようになっておられたのでした。比叡山ばかりではなく、南都(奈良)の法相宗をはじめ、諸宗の宗義の研鑽にも努められたのでした。
これらの修養によって、法然上人は、当時、日本に伝わっていた仏教の教義の最も深いところを究められたわけです。このことを、親鸞聖人は「正信偈」に「明仏教」(仏教に明らかにして)と詠っておられるのだと思います。つまり、当時の仏教の教義に精通しておられたということです。
しかし、それにもかかわらず、法然上人は、それらの学びからは、心から喜べる人生の答えを見出されなかったのです。そこで、諸宗の教義から離れて、直接、釈尊のみ教えの中に答えを探し求められたのでした。このため、上人は、釈尊の教説である厖大なお経と、それらのお経に対する先人たちの解釈などを精力的に学ばれたのでした。この意味でも、親鸞聖人は、法然上人のことを「明仏教」(仏教に明らかにして)と讃えておられるのだと思います。諸宗教の一つである「仏教」ではなくして、釈迦牟尼仏の教えの全体を解明されたということです。
このような経過の中で、前回述べました通り、法然上人は、『仏説観無量寿経』と、善導大師による、その注釈である『観経疏』に出遇われたのです。善導大師が『仏説観無量寿経』の教説から受け取られた「ただ念仏して」という教えこそが、釈尊のご本意であることを、法然上人はお気づきになられたのです。
この劇的な出来事を契機に、上人は、ご自身が「専修念仏」の道を歩まれるとともに、世の貧富・貴賤・老若・男女・善悪の人びとに、一心に専ら阿弥陀仏の名号を称える念仏を勧められたのです。その勧化を受けた多くの人びとの中に、実は、親鸞聖人がおられたのです。
「正信偈」には、「憐愍善悪凡夫人」(善悪の凡夫人を憐愍せしむ)と述べられていますが、「凡夫」とは、普通の人ということで、真実に目覚められた仏以外の、どこにでもいる人のことです。法然上人は、善悪にかかわらず、真実に目覚めることができていないすべの凡夫を憐れまれたのです。しかし上人は、ご自分以外の凡夫を憐れに思われたということではないでしょう。
阿弥陀仏の本願が、善悪にかかわらず、悩み多いすべての凡夫を憐れんで発されている慈愛であること、そして凡夫は、本願に素直に従うしかないことを説き示されたのが、釈尊の慈愛であることを、法然上人はまた明らかにされたのです。
ここには、悪の凡夫も、善の凡夫も、ともに区別なく見られていることに、注意を向ける必要があると思われます。悪の凡夫は、自分が起こす欲望に自分が支配されて、法律を犯し、道徳に背き、仏が説き示された真実をないがしろにしているのです。善とされる凡夫は、現実には、法律は犯していないかもしれません。また道徳に背く行いはしていないかもしれません。しかし、わずかばかりの自重の努力をもとにして、知らず知らずのうちに、その果報を要求します。また、他人を見下して自らの優越を誇っているのです。これも、仏の真実をないがしろにしているのです。
善であろうと、悪であろうと、どちらにしても、愚かで悲しい存在であるのが凡夫なのです。そのように愚かで悲しい存在である凡夫のあり方に、法然上人は、ご自身のすがたを見ておられたのではないでしょうか。
凡夫は、どこまでも憐れむべき存在であり、そのような凡夫であるからこそ、摂め取って捨てられることがない阿弥陀仏の本願が一方的に差し向けられていることを、法然上人は強く受け止められたのです。自棄になる他はないような絶望の中で思い知らされる歓喜を、身をもって教えておられるのではないでしょうか。
大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘
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