選択本願
- 【原文】
真 宗 教 証 興 片 州
選 択 本 願 弘 悪 世
【読み方】
真宗の教証、片州に興す。
選択本願、悪世に弘む。
親鸞聖人は、法然上人のことを「真宗教証興片州」(真宗の教証、片州に興す)と述べられて、その徳を讃えておられます。
法然上人こそが、この世界の片隅である日本の国に、「真宗」の「教え」と、その教えの結果である「証」とを興隆させてくださった、と喜んでおられるのです。
「真宗」は、「まことのみむね」と読みます。それは、仏教の最も大切なところ、という意味です。仏教の最も大切なところということは、とりもなおさず、私たちの日々の生活のなかで最も大切なこと、ということになります。
それを、法然上人は、誰にもわかるように、教えてくださったというわけです。
それでは、その「真宗の教証」とは何であるかと言えば、それが、次の句にある「選択本願」ということなのです。つまり「阿弥陀仏が選び取られた願い」ということです。
浄土の教えの根本となるお経は『仏説無量寿経』です。「仏が無量寿についてお説きになられたお経」です。「仏」は釈尊のこと、「無量寿」は阿弥陀仏のことですから、このお経は「釈尊が阿弥陀仏についてお説きになられたお経」なのです。
この『仏説無量寿経』に、「選択本願」のことが説かれています。
阿弥陀仏が仏になられる前、法蔵という名の菩薩であられたとき、世自在王仏という仏のみもとで教えを受けておられましたが、法蔵菩薩は、人類すべてを救うための浄土を開きたいという大きな願いを発されたのです。そして、そのような浄土を実現するための教えを師の世自在王仏に乞い求められたのです。
世自在王仏は、法蔵菩薩のこの深い願いにお応えになって、何と二百十億もの仏さまがたの浄土のありさまと、それらの浄土に生きる人びとの様子をお示しになったのです。法蔵菩薩は、これら二百十億の諸仏の浄土の様子を詳しく見せていただいた上で、「無上殊勝の願」と説かれていますように、この上にない、殊のほか勝れた願いを発されたのです。他の仏さまがたの浄土とは違った、特別な浄土を実現したいという願いであったのです(『真宗聖典』14頁)。これが、選び取られた願い、すなわち「選択本願」なのです。
殊のほか勝れた願いというのは、真実に無知であり、教えに背を向けている凡夫、いわば、どうにもならない凡夫をこそ、迎え入れる浄土を実現したいという願いであったのです。
法蔵菩薩は、仏になろうとしておられましたが、もし、この願いが成就しないのであれば、自分は仏にはならないという誓いを立てられたのです。ところが、その法蔵菩薩が、阿弥陀仏になられたのです。ということは、どういうことになるでしょうか。法蔵菩薩の願われた願い、つまり、往生するはずのない人を往生させたいと願われた「本願」が、すでに実現しているということなのです。
助かるはずのない人を助けたいと願われた「本願」、それが「選択本願」なのです。そしてまた、それが、仏教の「真宗」(まことのみむね)なのです。
「選択本願弘悪世」(選択本願、悪世に弘む)と詠われていますように、法然上人は、この「選択本願」の教え、つまり「阿弥陀仏によって選び取られている願い」が現にはたらいていることを、この悪世に弘めてくださったのです。
「悪世」は、私たちが生きているこの世界のことです。『仏説阿弥陀経』には、これを「五濁悪世」(『真宗聖典』133頁)と教えられています。劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁という、五つもの濁りがある、ひどい世の中ということです。親鸞聖人は、「正信偈」では、「五濁悪時」としておられますが(『真宗大谷派勤行集』8頁、『真宗聖典』204頁)、私たちが生きているこの世間は「五濁悪世」であり、私たちが生きているこの時代は「五濁悪時」なのです。
法然上人は、『選択本願念仏集』という書物を著されました。そして、阿弥陀仏の本願という他力によって私たちに「念仏」が与えられていること、そしてこの「念仏」を、五濁悪世に生きる私たちが、率直に受け取ること、それが「選択本願」に従うことであることを教えておられるのです。
この教えを親鸞聖人は深く喜んでおられるのです。
大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘
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