再会 もう一度遇いたい
(鈴木 君代 教学研究所主事)
「如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし師主知識の恩徳もほねをくだきても謝すべし」
「皆さん、大きな声で歌っているけれども、一体何の恩徳に感謝するんですかね。」先生は、いつも最後まで、その時と場を一回しかないと大切にされていた。「死につつある今を生きつつある。生きつつある今を死につつある」と生涯親鸞さまが課題とされた「生死出ずべき道」の話を常にされ、親鸞さまの言葉を何度も何度もその身にいただきながら、常に「世界と人」を求め、問い続けておられた。
その問いは、十五歳から絶えることのない問いであったようで、少年の苦悩の日々を昨日のことのように話されていた。親鸞さまに出遇えたいのちの不思議を何回も何回も初ごとのように語っておられた。もうあんな人にはお遇いできないだろう。そう思うと哀しくて、静かに横たわる先生の側に座り、泣き尽くした。
先生とお会いすると、私のいのちが喜んだ。言葉を聴くと身体が震えて喜んだ。それまでの私は、本当の教えに出遇いたいと、あちこちに人を求め生きてきた。そんな私に周りの人は奇異の声をあげた。しかし、そうしないではおれない何かが私には確かにあった。
先生は私に、「それは人間の根源的ないのちの要求なんだ」と教えてくださった。おのおの十余ヶ国の境を超えて来るのは、ただ「このことひとつ」を求めるためなんだと。
真宗に生きた人を通して、その人を生かしめている真宗に遇うのだと今は頷ける。それは先生に遇わせてもらわなければ、そして、何度も自分に確かめられるようにおっしゃるのを傍で聴かせていただかなければ、決してわからなかっただろう。教えというのは、生きている人を通して、その人のいのちに遇って、人々に響いてくるのだと言われていた。まさにその通りだった。
現実問題のただ中にいて、もがいているどうしようもない自分が、『教行信証』に出てくる親鸞さまの一つひとつの感動の言葉にお遇いすると、七百年以上経った今も、その言葉が現在の自分に響いて素直に感動した。そして、そのいのちの言葉に生きた人の言葉によって、また私も真宗を生きるものになりたいと心から願った。
「つきせぬいのちのほとけに帰命し、はてなき光のほとけに帰命す」朗々とした先生の歌われる声が今も聞こえてきます。親鸞さまの感動の言葉が、本当に真宗に生きた人の言葉を通して、「いのち生きる一切のものにはたらき続けている」という生きたはたらきに私も遇わせてもらおう。それは、どこでもないここ、誰でもない私、いつでもない現在ただ今。
あたかも赤ちゃんが、おぎゃーと声をあげて「南無阿弥陀仏」と泣きながらこの世に生まれ出てきたそのいのちの最初をいただき続けていこう。生まれ続け、生まれ続け、破られ続け破られ続けて、おぎゃーと声をあげて「南無阿弥陀仏」と念仏申して「誕生」の時をむかえ続けたいから。
それは、ひとりで立って、生きて生きて生きて、和田稠という先生にもう一度お遇いさせてもらうことから、終わりのない歩みがはじまる。
(『ともしび』2006年8月号掲載)
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