「いのち」について思う
(三露 彰英 教学研究所事務長)
最近感じていることを書かせていただきます。昨今、「いのち」を軽視した記事ばかり新聞紙上に掲載されているとお思いの方もおられると思います。「親の子殺し」、「子の親殺し」など、人を人とも思わないような自分勝手さが目に余る事件の記事ばかりです。昔、祖父母から教えていただいた「いのち」のたいせつさ、「今日という日は子どもでも老人でも二度と来ない、たいせつに日暮らししなさい」と教えられたことを思い出します。
先日も法事の席上、「いのち」について少しお話する機会がありました。あなたたちがこの世に「いのち」をいただいたのは、お父さんとお母さんから生まれた「いのち」、そのまたそのお父さん(祖父)お母さん(祖母)からいただいた「いのち」、代々さかのぼっていくと何千人、何万人のいのちから受け継いだ「いのち」の歴史があります。今あるのは、代々ご先祖からいただいた「いのち」です。だから「いのち」を粗末にしてはいけませんよと……。
この頃、小学校の給食をいただく前に、「いただきます」と手を合わすことをしない小学校があると聞きます。「給食費を払っているのに「なぜ」手を合わせなければいけないのか!」といわれるそうです。
人間の「いのち」だけではない、動物・植物・食物など、いろいろ生きとし生きるものの「いのち」をいただき、生かされている我々人間であることを、学んでいただきたいものです。
門徒さんから「「いのち」ってなんですか。自分のものではないのですか」と問われることがあります。自分の「いのち」と思うなら、その「いのち」を思い通りにしてみてください。自分の思い通りにできない「いのち」を我々はいただいているのです。
先輩のことばに、
“人のいのちは、今日あって明日はないいのち。誰が明日のいのちを保証するものがあるのか。だから、過ぎた日のことは悔いず、また来ぬさきは憧れず、取り越し苦労をせず、この現在をたいせつに踏みしめてゆけば、身も心もすこやかになる”と。
明日があるからと思うと、何事にも力が入らない。明日が当てにならないから、今日こそは一生懸命にやるという思いになってこそ、ほんとうによい自分の生き方になってゆくと思います。
先人のことばを通して、今「いのち」をたいせつに生きたいというのが、わたくしたちの深い願いであると思います。
(『ともしび』2006年11月号掲載)
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