経蔵を求めて
(御手洗 隆明 教学研究所研究員)
教学研究所には現在、約二万七千冊の蔵書がある。これを取りまとめるのが私の役割の一つなのだが、本の山をかき分けていると当所の歴史をたどっているような感を受ける。もちろん真宗・仏教関係が中心なのだが、個々の課題に添って様々な分野より集められた本や、教化研究院や宗学院などかつて大谷派にあった学事機関より引き継がれた本も多い。中には、人の手に触れたのは果たして何年前なのかと思うほど埃に染まった本もあるが、よく見るとその昔一世を風靡したものであったり、有名な方の著述であったりする。
本は生き物である。毎日のように新刊が出版され、新たな成果や情報が蓄積されてゆく。反面、その時に脚光を浴びたものであっても、消費し尽くされて「終わった」と見なされ、あるいは今に通用しないものとして忘れ去られてしまう。かつてのベストセラーもそうやって過去のものとなる。研究書も同様で、著者は歴史に名を遺していても、著作の内容は忘れ去られている場合も少なくない。ところが、そういった過去のもの、また脚光を浴びることの無かった著述ほどあなどれない。埃を払って読んでみて、目が覚める思いをしたことも少なくない。時には、その本の著者や時代背景にまで思いを馳せることもある。
このような経験、開架式の図書館を利用した方ならあるのではなかろうか。目当ての本を探すつもりが、全く違う方向へ吸い寄せられる。発行されたばかりの雑誌を一読して驚く。あてどもなく書庫をさまよっている時に生涯の一冊に巡り会う。蔵書とは思えないほど使い込まれた本の、あってはならない書き込みに示唆を受けたりする。偶然隣り合った人がお互い名前だけ知っているご同行であったりする。「深く経蔵に入りて、智慧海のごとくならん」との教言がふと思い浮かぶ。この経験、開架式でないと無理である。私の学生時代の図書館では書庫に入ることは希であり、もし入庫が認められても緩やかな監視付で、長居できたものではなかった。それでずいぶんとストレスを感じたのだが、その後は学外の図書館に出向くのが当たり前と思うようになり、おかげでずいぶんと得るものがあったと思う。
京都には図書館が多いので、私もずいぶんと助けられている。親鸞聖人の関東時代を調べるため、関東地方史を探しに方々を巡ったのが最初であったが、聖人も書物を求めて旅された方のようである。常陸国へは「一切経」を求めて移住されたとの説もあるし、鎌倉幕府による「一切経校合」に参加し、後に執権となった北条時頼と交流したとも伝えられる。帰洛後も中国の宋国より伝わった最新の仏教書を入手されたことが知られ、著述を完成させるために京都に戻られたとの説もある。わからないことがあれば探しに行く、決して妥協はしない、時も場所も選ばない。このような聖人像を思い浮かべる時、また、ふっと一冊の本を求めて旅に出たくなる。
(『ともしび』2007年4月号掲載)
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