生死出ずべきみちをば、ただ一筋に
(山内小夜子 教学研究所研究員)
親鸞聖人が越後に流罪になった時、当時の「律令」では流罪の地にその「妻妾」を伴わせると定められていたという。親鸞聖人の妻も「流罪」を生きたことにあらためて思いが至った。親鸞聖人三五歳、恵信尼は二六歳。
今でも事件や犯罪が起こった時、当事者はもとより、被害者や加害者の家族の、悲しみと混乱と苦悩に世間は気づかないのか、時には石もって追うような事すらする。どういう生活が流刑の地であったのだろうか。互いに二人はどういう存在だったのだろうか。
恵信尼が残された「恵信尼文書(消息)」は、娘の覚信尼への「下人」の譲り状と親鸞聖人の回想が語れていて、流罪の時は書き残されていない。
お手紙から伺われるのは、寅年生まれの恵信尼さん、子犬のようによく働くおばあちゃん。物忘れがひどくなったとか、手仕事の針を工面してくださいとか娘に書き送られている。母と娘の関係は歳を重ねるごとに、親と子から、「女」を生きる先輩後輩、時に転倒したりと変わっていく。娘の覚信尼が、父の最期を看取ったことは、遠くに暮らす母にとって心強いことであったろう。その娘から、父親の往生に疑いをもったというお便りが届いた。
何よりも、殿の御往生、中々、はじめて申すにおよばず候う。(なににましても、殿(親鸞)の御往生、当然のことで、無論、こと新しく申す必要もありません)
(聖典六一六頁)
恵信尼は、疑いないと断言、強くきっぱり返事をされている。
恵信尼が記すには、親鸞聖人が法然上人を訪ねられ「後世の助からんずる縁」を問うたのに対し、法然上人は「生死出ずべきみちをば、ただ一筋に」語られたと。
往生は間違いないという根拠の一つは、親鸞聖人が法然上人のもとへ駆けつけられた経緯と、念仏して地獄に堕ちても後悔しないという、法然上人への信頼。
法然上人は、善人であろうと悪人であろうと差別なく同じように生死の迷いをでることのできる道だけを、ただ一筋にお説きになった。親鸞聖人は、その教えに導かれて、雑行を捨てて本願に帰されたのです、往生はまちがいありません、と。
恵信尼が娘へのお手紙に、「後世の助け」と「生死出ずべき道」のその際を、書き分けられていることは、とても大切なことのように思われる。
流刑の地で、流罪をともにいきた恵信尼。当時から、女性の名前が一人称で登場することはあまりない。「恵信」という名は、念仏の教えに、一人の仏弟子として生きんとした名のりのように思われる。
(『ともしび』2008年1月号掲載)
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