真宗の開顕
(藤原 正寿 教学研究所所員)
先日ある人から教示を得て、あらためて宗祖が獲得された念仏の信について確かめさせていただいた。よく知られているように親鸞聖人は、最晩年の八十四歳になって、我が子である慈信(善鸞)を義絶しておられます。そのことに関するお手紙の中で、聖人は門弟に対して、次のようなメッセージを伝えておられます。
慈信坊がもうすことによりて、ひとびとの日ごろの信のたじろきおうておわしましそうろうも、詮ずるところは、ひとびとの信心のまことならぬことのあらわれてそうろう。よきことにてそうろう。
(『御消息集』広本十二通・聖典五七七頁)
これは、自らが本願の教えを説き、共に念仏を喜びあってきた関東の人たちに対して、あろう事か、自分の息子がその教えをゆがめるようなことを言い出した。そのことで多くの門弟の間に混乱と動揺が生じているという報告が親鸞聖人のもとに届く。それに対するご返事、ある意味で回答の文章のような性格を持つ手紙です。
普通の人間関係であれば、「あなたの息子が、父(親鸞)から聞いたことだと言って、これまで聞いてきた本願による救いとは違うことを言いだしたために、みんなが混乱しているのだ、どう責任をとってくれるのか」というような問いかけに対しては、申し訳ないとひたすら謝り、多少弁明をしながら許しを請うということではないでしょうか。宗祖も、善鸞の言動によってさまざまな混乱が生じていることは、「不憫なことだ」と繰り返し述べておられます。しかしこれは決して、「いいわけ」でも、「単なるお詫び」でもありません。宗祖が慈信を義絶したのは、同じ手紙の中で言えば「余のひとを強縁として念仏ひろめよともうすこと」(聖典五七七頁)という事柄にあります。つまり「世俗の権威を縁として、念仏を広める」と言うことが、親鸞が法然との出遇いに依って獲得した「ただ念仏せよ」という教えとは決定的に違うという一点にあるのだと思います。
親鸞聖人は、息子が悪いことをしてごめんなさいとは言われません。息子の言動によって、むしろ皆さんの信心が本物でないことがはっきりしてよかったではないか、とおっしゃるのです。この「よきことにてそうろう」という言葉をお互いに喜び合うことのできる関係が、念仏によって結ばれた、「御同朋」なのです。信心を獲得するということは、何も問題が無くなって、毎日楽しく暮らせるということではありません。生きる限り問題はあるのです。その問題を縁として念仏を讃嘆する身となることこそが念仏の信であると,ここで宗祖親鸞聖人は確かめておられるのではないでしょうか。
(『ともしび』2008年2月号掲載)
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