さるべき業縁のもよおせばいかなるふるまいもすべし
(三本 昌之 教学研究所嘱託研究員)
一昨年の七月二十一日、京都地裁でひとつの裁判があった。五十四歳の息子が八十六歳の母を殺めた事件の判決公判であった。
殺人、しかも母親殺しという、阿闍世も思いとどまった五逆の大罪である。凶悪な罪を犯した息子は、どんなに残忍であるかといえば、とても親孝行で真面目な人間であった。
息子は、認知症で車椅子生活の母の介護をするため会社を退職してまで母の世話をしていた。収入は母のわずかな年金だけとなり、次第に金銭的に行き詰まり心中を決意した。母に「もうあかん」と言うと、「おまえと一緒ならどこでもいい」と言ってくれた。それで「一緒に死ぬことを承諾した」ものと解して、母の首に手をかけた。本人も自死を図ったものの遂げる事が出来ず、自首したということであった。
息子は、また「認知症の母を介護する事で、親子の絆は深まっていった。母を抱き介護する手は、母を殺める手であった。惨めで悲しすぎる。じっとわが両の手を見た。何の手であるのか」と述べている。
息子は心から母を愛し、長生きして欲しいと一生懸命に介護していた。他の誰よりも親孝行で、慈しみをもって食事の世話や、入浴、排泄の世話などをしていたのであろう。しかし、母をやさしく「介護をする手」は、母を「殺める手」となり、本人も意図していなかった最悪の結果となった。
このように性質が善く、真面目で、おとなしく、優しくても、
「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(『歎異抄』第十三条)
ということである。それは、誰もがそのようなことを起しかねない、その可能性を秘めているということで、人間の罪業の重さを感じる。
現在、認知症の父と二人で暮しているわたしには、この事件を全く余所事、他人事とすることができない。父は週四回介護施設に通い、ショート・ステイもしてくれる。しかし、食事の世話・入浴など、わたしの思い通りにならない時などけんかになる。病気であるから、とわかっていてもついつい愚痴を言い、けんかになってしまう。わたしは、あまりに不親切で孝行息子ではない。さらに、周囲からは「もっと大変になるよ」と言われ、これからどうなるのかと不安である。「さるべき業縁」がもよおせば、どんな酷い仕打ちをする可能性が無いともいえない。そしていま、「業縁」のままに、現実をひき受けて、父との日々を送っている。
このような罪業性をもつ我が身のあり方は、正しく「いずれの行もおよびがたき身」を強く感じる。そして、このようなわたしだからこそ、救わずにおれないという弥陀の大悲に、深く感謝せずにはおれないのである。
(『ともしび』2008年4月号掲載)
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