「偽りである」ということ―人間であることを問う
(竹橋 太 教学研究所所員)
誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と。(「信巻」・聖典二五一頁)
ほんとうに身をもって知った。悲しいことに、この愚禿親鸞は愛欲の広い海に沈みこんでしまい、名利の大きな山に踏み惑って、浄土で仏になることが約束された人々の仲間に入ることをうれしいとも思わないし、真実のさとりに近づくことを快いとも思わない、恥ずかしいことである、かなしいことである、と。
これがお念仏の教えによって、すくわれた宗祖親鸞聖人の言葉です。私たちの思いとまったく違ったことが述べられています。ここにあるような状態から逃れ、善い者になる、素晴らしい生き方をする、それが私たちの思う「すくい」でしょう。
はっきりしておかなければならないことは、仏教・真宗の教えは、どう生きるかを教えるものでも、あるいは聞いて善い人間になるというものでもないということです。人間であることそのものを問題にする教えなのです。それが道徳や倫理と違うところだと思います。
私たちは幸せを求めて社会を改革し、進歩させてきました。本当に便利な世の中になりました。おかげで一人の人と話すこともなく、一日を終え、生きることができるようになりました。老人はマンションで独りで暮らせるようになりました。それで私たちは幸せになったのでしょうか。そうではないように思います。何かが違っています。それでは、もっと人間を鍛えれば、世の中はよい方向に向かうのか。いままでもそう思ってずっとやってきたのではなかったでしょうか。
先の言葉のように、宗祖は自らが偽者であることを、仏によって教えられています。偽者であることは、仏の教えに出会わなければ言えないことなのです。つまり偽は真に照らされることによってのみ存在するのです。だから偽者であるということは悲しいことだけれど、そこには教えに出会えたという喜びもあるのです。自分で自分を偽ることなく、この生こそが自分である、と。それなのに、それをまた自分の存在の根拠にして自己肯定して生きるのが人間です。
しかし、それだからこそ、聞法ができるのではないでしょうか。偽者であるから苦しみ悲しみを起して生きるのです。すくわれていると思っている者は聞くということがありません。聞かねばならない身であることがはっきりする、それが真宗における「すくい」であると私は教えられます。
宗祖は、この自らの言葉の後に、阿闍世のすくいの物語を引用されます。阿闍世は法蔵菩薩が誓願で「五逆の者はすくわない」と言われた、その者です。阿闍世は、すくわれない、地獄に堕ちるのが自分だと自覚します。それがすくいだとお釈迦さまは言われます。その言葉を有り難く聞かれたのが宗祖親鸞聖人です。偽者が自分ですくいを考えてもそれは詮のないことなのです。
(『ともしび』2008年7月号掲載)
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