地獄=大悲の本願に遇うところ
(高柳 正裕 教学研究所所員)
秋葉原での無差別殺人事件の犯人が、(真偽はわかりませんが)人を殺せば死刑になれると思ったとか、ネットで殺人の予告をすれば誰か止めてくれると思ったと言っている事がマスコミを通して漏れ聞こえてきた時、それならなぜ人を巻き込むようなことをしないで、自殺しないんだという怒りをおぼえたのは、遺族だけではないでしょう。しかしその一方で、「彼の気持ちがよくわかる」「自分もいつ同じことをするかわからない」という多くの反応が起こったことに、人間の立てた善悪の観念ではとても解決のつかない、精神の闇が深まっていることを憶わずにはおれません。
犯行の背景には、ワーキングプアなどの雇用問題・経済問題があるとコメントする政治家や評論家もいますが、世界を破壊したいという衝動は、そうした経済などの条件問題とは全く次元の異なる問題にその根はあるのでしょう。その根とは、世界全体が自分を拒絶する敵であるという感覚であり、それは自分はこの世界にあって、全くのよそ者であるという、底知れない孤立感です。
自殺はもちろん悲惨なことであり、自殺しようとするところまで追い込まれるということは、苦しいことではありますが、そこには自己愛があります。つまり、苦しみのただ中で、苦しい自分を助けて、楽になりたいという、自分への愛着がそこには動いています。ところが、世界を破壊し、無差別に人を殺したいという、底知れぬ衝動に駆られるときには、その自分そのものも破壊し尽くしたいという、出口の全くない絶望的な精神状態がそこにはあるのです。
親鸞聖人が「正信偈」で、浄土の教えに帰した大切な先輩として仰いでおられる「七高僧」の一人である源信僧都は、その著『往生要集』で、人間にとって一番苦しい地獄は「無間地獄」であり、それは「孤独無同伴」つまり孤独な世界であると、はっきりとおっしゃっておられます。そして真宗の根本経典である『仏説無量寿経』に説かれる、阿弥陀如来の本願の第一願には「地獄・餓鬼・畜生」がないことを誓われています。つまり、その地獄に生きるものはまた、餓鬼・畜生の生き方をせずにはおれないと、阿弥陀の本願は、衆生の苦しみを智慧によって見抜き、大悲しておられるのです。
親鸞聖人がその本願に触れ、本願に生きることになったのは、親鸞聖人自身が本願の目当てである孤独の地獄をくぐられたからでありましょう。非道な行動をとることは、人倫からは許すことのできないことではありますが、人間の立てた愛や善悪の価値観の虚偽を痛いほど知り、孤独の地獄にあって、世界を恨み、絶望するということは、機縁さえ熟すならば、親鸞聖人を殺そうとした板敷山の弁円がそうであったように、大悲に触れて懺悔がおこる、重大な意味があるということを、親鸞聖人から教えられるのです。
(『ともしび』2008年9月号掲載)
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