宗祖としての親鸞聖人に遇う

宗祖親鸞聖人に遇う―聖人に遇うた人―

(福島 和人 教学研究所嘱託研究員)

文応元(一二六〇)年、飢饉の中に次々と人々の死んでいく関東の惨状を訴え、念仏者の心得を京の親鸞聖人へと尋ねた門弟乗信房への返信は、よく知られている所である。
聖人は、「あわれにそうらえ」(聖典六〇三頁)との言葉をかけつつ、「ただし、生死無常のことわり、くわしく如来のときおかせおわしましてそうろううえは、おどろきおぼしめすべからずそうろう」とお示しの上、「如来の御はからいにて往生するよし、ひとびともうされ候いける、すこしもたがわず候うなり」と励ましつつ、五十数年前の京都吉水の庵室での出来事を、故師を思い浮かべながら、次のように伝えている。

故法然聖人は、「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」と候いしことを、たしかにうけたまわり候いしうえに、ものもおぼえぬあさましき人々のまいりたるを御覧じては、往生必定すべしとてえませたまいしをみまいらせ候いき。(聖典六〇三頁)

承元の弾圧による流罪以來、生涯、二度と会うことのなかった師の示教と、その微笑まれたお顔までを、眼前に思い浮かべ、文を綴られる八十八歳の聖人の人となりと、鶴首していた便りに心躍らせたに違いない乗信房の胸中に思い至った時、筆者の“親鸞聖人像”は一変していた。
と言うのは、幼少期以来、毎年十一月二十七日のお七夜の度に開扉される、生寺に伝来の身の丈四、五〇センチ程の粗末な聖人の木像の、いかにもやさしげで素朴な姿に親しんできた眼には、十三歳の折の得度式で拝した聖人の厳かな御真影がいかにも近寄り難く思われ、長じて史学科に学び、近代の親鸞像を訪う中で知った本願寺の偉容を前にして、「親鸞は本願寺の先祖ではない」とまで批判せねば収まらなかった明治の社会主義者木下尚の声に,抗じ切れずにいた聖人への違和感が拭い去られたからであった。
史実の検証や分析、比較、研究という姿勢を一歩控え、先ず、聖人の遺教(語)に直に心を傾け耳を澄ますという姿勢の大切さに,気付かされたのである。
奇しくも、その数年後、私淑してきた先生の御往生後に届いた一書の中で、出遇いの種々相を如実に語られた次の如き法語に浴したのだった。

私どもは自分の生涯で、ただ一度、それも五十年、六十年前にお会いしただけでも、いつも一緒にいて離れないという実感を持つ人があります。その反対に、十年も二十年も毎日顔を合わせていましても、一度も会っているという思いのしない人もあります。(中略)一度も出会ったことがなくても,一瞬間といえども離れていない、しかも永遠に離れないという人があり(以下略)
(広小路亨「一期一会」『縁に随う』)

三河の真宗門徒に生まれ、生涯を通して聖人を憶念し、聖人に遇うところにその全分を尽くされた念仏者であったことを,私は改めて知った。
聖人に遇うて生きる人を縁として、自らにも聖人に出遇うていく道の開かれている事実を頂き、「この如来、(中略)一切群生海の心なり」(聖典五五四頁)との教語を胸に、相共にとの一念、いよいよに切である。

(『ともしび』2008年10月号掲載)

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