「和讃」に親しむ
(上場 顕雄 教学研究所嘱託研究員)
自坊で毎月声明や勉強会を門徒とともに行っている。二十数年が経ち「正信偈」、『歎異抄』、「和讃」、『唯信鈔文意』などを読みながら解釈や宗祖のいわんとするところを提示している。また、宗祖、蓮如上人の生涯、あるいは本願寺東西分派などの歴史的な話も順次行った。
特に多数の和讃を紹介、読誦した時は、筆者もそのわかりやすさや讃歌にあらためて心うたれることがあった。和讃は宗祖が「ヤハラゲホメ」と左訓されるように、経、論、釈の深い教理を和語をもって意味をわかりやすくされ、諷誦するようにされた歌である。和語の『教行信証』ともいわれる。
『三帖和讃』の「浄土和讃」、「高僧和讃」は宗祖七十八歳の時脱稿され、八十三歳の時に再治された。その喜びを描かれたのが著名な「安城の御影」である。蓮如上人の孫、顕誓は『反故裏書』で「世に申伝へけるは、『和讃』御所作をなされ御歓悦の御かたちをうつさせられ侍る、画工は朝円法眼と云云」(『真宗聖教全書』第三巻九五七頁)と、宗祖が「和讃」完成で歓ばれ、自画像を描かせたと伝え聞いていると記している。
宗祖が高齢にもかかわらず、「浄土和讃」一一八首、「高僧和讃」一一九首(蓮如文明版)の多数を著され、また宗祖八十歳代半ばで「正像末和讃」一一六首を加えられた。七五調の四句一章形式の讃歌は、拝読したり聞く門徒にとって心に印象深く残る。宗祖は難解な漢文を解読できない者にわかりやすくするため心血を注いで和讃を作成してくださったのである。また、流暢な語調や教義的に組織だてられている内容は改めて必読、口誦することが求められているように思う。
筆者が好む和讃が多々あるが、たとえば左掲の和讃もその一つである。
本願力にあひぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて
煩悩の濁水へだてなし
(「天親讃」聖典四九〇頁)
特に「功徳の宝海」に魅せられる。宝海は苦海に対応する文言であろうが、宗祖は「海」と「水」を喩えにされていることが多い。右掲の「煩悩の濁水」、「弘誓の智海」、「名号不思議の海水」、「智願海水」、「他力の信水」等々である。煩悩は本願を信ずるとそのまま同化、一味になるもっともわかりやすい比喩として海、水を宗祖は提示して下さったと考えられる。海は清濁、大小の川の水をみな受け入れてくれる身近な自然であろう。もちろん『願生偈』に「能令速満足功徳大宝海」(聖典一三七頁)とあり、宗祖も読誦しておられたのはいうまでもない。
筆者は「正信偈」を日常的にお勤めする時、「帰入功徳大宝海必獲入大会衆数」(聖典二〇六頁)の箇所で、前掲の「和讃」を思いおこす。特に「宝海」に思いをはせる。
多くの「和讃」を味読することは、門徒としての自覚をより一層促されるのではないだろうか。
(『ともしび』2010年2月号掲載)
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