宗祖としての親鸞聖人に遇う

悪人こそがすくわれる

(竹橋 太 教学研究所所員)

阿闍世と言えば『仏説観無量寿経』の序分に説かれる、「王舎城の悲劇」の一方の主人公で、父を殺し、仏を傷つけようとした五逆、謗法の大悪人です。宗祖親鸞聖人は、『大般涅槃経』を『教行信証』「信巻」に引用して、その阿闍世のすくいを説かれて、浄土真宗の信心を明らかにしておられます。そこで阿闍世は「一闡提」といって、「仏がすくおうと思ってもその手がかりがない者」としてえがかれています。「すくわれないもののすくい」、つまり悪人がどのように成仏道に立てるかということが浄土真宗の信心の内容だということなのです。
『教行信証』のこの部分はまた、『仏説無量寿経』に説かれる法蔵菩薩の第十八の願の「すべての者をすくうけれども、ただ五逆と正法を誹謗したものを除く」という言葉の意味を明かしている、と宗祖が受け止めていらっしゃいます。宗祖にとって阿闍世のすくいが自らのすくいであるということです。それは実は、同時に自らも、すくいからもれるべき五逆と謗法のものであるという自覚に立っているということでもあります。
このような「悪人のすくい」が浄土真宗の大きなしるしであるのは間違いありません。しかし、このことは実は法然・親鸞のお二人が特別に考えられたことなのではないのです。仏教は実はその初めから「悪人・阿闍世のすくい」を一つのテーマとしてきました。阿闍世のすくいを述べた経典がたくさんあるのです。そこで阿闍世のすくいは「無根の信を得た」と説かれています。阿闍世の側には根拠がない信心だというのです。それはちょうど宗祖がおっしゃる「阿弥陀さまからいただいた信心」のことです。
私たちはどこかに仏がいて、それに自分がであうのだろうと考えています。「自覚」という言葉で示されるのは、善悪を自分で決め、その延長に仏やすくいをおいて疑いもしない、そういう偽りが照らし出されることです。仏とであったから悪人と名づけられる者になるのですし、また悪人であるという自覚こそが仏とであった証拠なのです。真なるものとであうから偽であることがわかるのです。正しい教えを聞こうとも、仏になろうとも思ってもいないのが私のすがたです。そういう自分のすがたに目覚めること以外に、私たちに仏道が成り立つ根拠はありません。このことこそが「南無阿弥陀仏」という言葉で示される浄土真宗の「信心」であり、仏教であるしるしなのです。
すくわれる者ではないという自覚から深められていった宗祖親鸞の仏道が、時間を超えてまっすぐお釈迦さまの説かれた教えにつながっています。

(『ともしび』2010年3月号掲載)

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