宗祖としての親鸞聖人に遇う

悪人はどこにいるのか

(太宰 不二夫 教学研究所嘱託研究員)

 真宗とは「悪人であることの自覚」から開かれてくる信仰世界である。それゆえに蓮如上人も真宗の安心のあるべきすがたを、「ただわが身はつみふかき、あさましきものなりとおもいとりて、かかる機までもたすけたまえるほとけは、阿弥陀如来ばかりなりとしりて・・・」(聖典八三八~八三九頁)と端的に示されている。昔から真宗門徒の間で「落ちるつるべが上がるつるべ」と膾炙されてきたのも、人間は一番下まで落ちたとき、すなわち地獄にしか行きようがない悪人の自分が自覚されたときにこそ助かるということを、このように伝えてきたのであろう。
 ところがその悪人の自覚には、大きな問題が存在している。兵藤格言氏が信仰の悩みを安田理深先生に尋ねられた、その問答の記録が草光舎より『信仰についての対話』として刊行されている。その中に次のような安田先生の指摘がある。
 「こちらから見れば、あなたは同じ所にいて同じ所をうろうろしている。だから、宿業の身と一つにならない。眺めている。眺める自分と眺められる自分と二つになる。二つになるものが分別です。本願と本願を聞いている自分と二つ。何でも二つになる。そうでしょう。汝という場合、お前は凡夫だといわれても、凡夫だといわれてそれを聞いているものと二つある。それが理知です。(中略)あなたは理知を立場にしている。南無阿弥陀仏が立場ではない」(『信仰についての対話Ⅰ』九〇頁)。
 天親菩薩の兄、無著菩薩は「菩薩は分別を以て煩悩と為す」(『大乗荘厳経論』)と説かれている。私たちの心は、常に「眺められるもの」と「眺めるもの」との二つとしてあらわれている。これは、その虚妄なる分別の事実こそが、仏道を歩むものにとって根源的かつ深刻な問題であることをあらわした言葉である。安田先生の助言も、この人間の事実に基づいてなされたのである。
 この虚妄分別の理知を立場として生きている者が、自分自身に「悪人」を見出そうとすれば、それを「眺められる自分」の中に探すことになる。ところが「眺められる自分」を「これが宿業の凡夫か」「これが悪人だったのか」と、どれほど裁いてみたところで、それを「眺める自分」は全く非のない善人であり、賢人そのものである。この理知を立場とする限り、そこに悲しみや傷みがともなうこともない。「眺める自分」は常に自尊心の鎧で固められ守られて、問題をはぐらかしながら逃げていくのである。
   宗祖が「悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して・・・」(聖典二五一頁)と述懐されているのは、決して「眺められた自分」のことをいわれているのではない。「南無阿弥陀仏」という如来の眼(他力)を賜ってみれば、この「眺める自分」こそが、如来から悲しみ傷まれている当の悪人だったのである。これは、そのごまかしようのない事実が照らし出されたところから告白された言葉なのであろう。
(『ともしび』2010年7月号掲載)

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