宗祖としての親鸞聖人に遇う

洛南の聖人ゆかりの地

(御手洗 隆明 教学研究所研究員)

 京都郊外の洛南、日野と三室戸には聖人誕生にまつわる伝承が残されている。その多くは江戸時代のもので、当時の学僧が調べた記録もあれば、いつの頃からか語り伝えられた逸話もあるが、中には後に定着し、聖人旧跡を生み出した伝承もある。ここでは、洛南に残る聖人とその家族の伝承をたずねてみたい。
 初めて聖人の出自が記されたのは曾孫覚如の時代である。聖人三十三回忌の頃、覚如が聖人の父を「前皇太后大進有範」(『報恩講私記』、聖典七三八頁)、「俗姓は藤原氏」(『御伝鈔』、聖典七二四頁)と、聖人の家系を記したことにより、聖人の出自は藤原氏北家日野流とされるようになった。日野家は代々日野の里(現伏見区日野)に領地をもち、法界寺を氏寺とする一族である。聖人の父有範が日野家の庶流であったことから、江戸中期頃よりこの日野の里が聖人誕生の地とみなされるようになった。
 また、覚如の子・存覚が「御(三)室戸大進入道殿 有範公上人之御親父」(存覚写『仏説無量寿経』)と記したことにより、有範が皇太后大進の官職を辞し、出家して三室戸大進と号し、宇治平等院に近い三室戸の地(現宇治市菟道)に隠棲したと伝えられるようになった。この地は、聖人の弟・兼有も三室戸と号したこと、また覚如も一時居住したことから聖人一族と縁ある土地とされる。ここも江戸中期頃より聖人の父有範ゆかりの地であることが知られるようになった。
 現在に伝わる日野・三室戸と聖人にまつわる伝承は、このような古い記録を始原としたようである。蓮如の頃より本願寺との交渉があった法界寺は、江戸後期には有範木像など真宗宝物を各地で開帳し、やがて西本願寺の支援により有範堂(宝物堂)を建立した。この堂は明治に日野別堂と改称し、後に宝物と共に西本願寺へ譲られ、昭和になって日野誕生院と改称し、聖人誕生を顕彰する施設として整備された(『日野誕生院誌』)。そして法界寺(現真言宗醍醐派)も聖人誕生地として、阿弥陀堂の丈六阿弥陀如来座像(国宝)を聖人幼少時代の念持仏として語り、後に「親鸞」となる少年が念仏する幻影を伝えている。
 三室戸の伝承も、江戸中期以降には「有範墓、三室戸寺の内にあり、有範卿は親鸞聖人の父なり」(『拾遺都名所図絵』)として三室戸寺(現修験宗)の伝承として残された。この墓は、有範が隠棲した三室戸寺の別院四十八願寺にあったともいう。また、一説に聖人はこの地で誕生したともいう。近年、三室戸寺は本堂に隣接する阿弥陀堂を有範墳墓跡として紹介している。
 覚如以降、聖人を想う人々はその実像を追い求め史実を探し、史実の空白の中から伝承が生まれ、そこから新たな旧跡が現れる。聖人の教えが伝わった地域に芽生えた、それぞれの聖人像の積み重なりが真宗八百年の歩みでもあることが、洛南に伝わる聖人たちの影から想われてくる。
(『ともしび』2010年8月号掲載)

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