宗祖としての親鸞聖人に遇う

本当の自分とは

(名畑 直日児 教学研究所助手)

 私は京都の大谷専修学院に、週一回ではあるが、学院生と共に仏教を学ぶご縁を頂いている。学院生は、スタッフと共同生活をしながら、その生活を通して仏の教えを聞き、学んでいる。その姿から、私自身の学びの姿勢を振り返る機会に恵まれている。
 その専修学院で、先日、座談会が開かれ、そこに参加した。座談会ではいくつかのテーマが出されていたが、その中の一つに、「本当の自分とは何か」というものがあった。
 他人との生活の中で私たちは、友達や先生、あるいは家族からどのように自分は見られているのかという、他人の「目」を気にして生きている。またその「目」を気にして、他人に気に入られるように、嫌われないように、いろんな自分を作っている。いろんな顔をもつ自分がいる中で、本当の自分とは一体何なのか、自分は何のために生きているのか、自分を生きるとはどういうことなのかという問いが生まれてくるというものであった。座談では、実際に自分が感じることや、聖典の言葉を持ち寄りながら、そのテーマについて話し合われた。
 本当の自分とは何か、という問いそのものはとても大切なものであることはいうまでもない。しかし、「日頃の自分」とはまた別に、「本当の自分」があるということになると、その自分に、「日頃の自分」を無理に当てはめようとする。そこに「本当の自分」と「日頃の自分」とに自己分裂が起こり、「本当の自分」に振り回され、逆に自分を見失ってしまうことになる。
 清沢満之は、「自己とは何ぞや」(大谷大学編『清沢満之全集』第八巻三六三頁、以下『全集』と略)という問いが人世の根本問題であるとした。これはどういう意味があるのだろうか。
 満之は、人間関係に苦しみ、不治の病に罹る中で、自らの人生の意義を問う日々を送っていた。その中で、次のように言っている。

 人生の意義は不可解であるという所に到達して、ここに如来を信じるということを惹起したのであります。(『全集』第六巻一六一頁)

 様々な思いが交錯する中で、人生の意義は、「不可解」(不可思議)であることに到達したとある。この不可解とは、問おうとしている自分自身の思慮分別が崩れたことを意味している。そしてこのことから「如来を信じる」のである。満之は本当の自己とは、「今、如来を信じている自己」以外にないという結論に至ったのである。
 私たちは、「本当の自分とは何々である」ということを具体的に示すことによって安心しようとする。それは今の自分に満足できずにもっと違う自分がいると思いたいからである。しかしそれは同時に何かを見失うことであることに気づいていないのである。
 「自己とは何ぞや」という問いは、本当の自分に対する答えをどこか外に求めるものではなく、それを探し求めている自分そのものが問われることに、本当の意義がある。それはまた、「日頃の自分」の中にすでにはたらいている課題を照らし出す意義がある。自分を超えて自分にはたらき続ける仏の願い、ここに気づくことが大切なのである。
(『ともしび』2011年2月号掲載)

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