つねならざる年
(藤井 祐介 教学研究所嘱託研究員)
遇うということは、その人が生きた時代に、その人の背後にある世界に遇うということでもあるだろう。
親鸞聖人が三部経の千部読誦を発願された年は、一二一四(建保二)年であるという。最終的に読誦は中止された。千部読誦の発願という出来事の背後に時代全体を覆う闇を感じる。それは、困難を前にして何ともならないという諦念であり、何もしたくはないという無気力である。
時代を覆う闇は、千部読誦の発願と同じ年に起きた別の出来事の背後にも感じられる。この年の六月、将軍・源実朝は日照りが続いたため、栄西に依頼し、自ら八種の戒律を守って法華経を読誦した。将軍が自然の恩恵を求めて祈願することは極めて珍しいことである。
鎌倉時代の政治に関する記録である『吾妻鏡』によれば、一二一四年の夏は洪水、日照りなどが相次ぎ、季候は不安定であった。人間の生活は自然の動きに左右される。異常な事態を前に人々は天を仰ぐしかなかったと思われる。
このような異常な季候は政治情勢にも影響する。民衆のみならず、為政者も安定した季候を望む。実朝が祈願した結果、雨が降ったと『吾妻鏡』は伝えている。山本幸司氏によれば、「実朝が単なる政治的支配者にとどまらず、天水の支配力を持つレイン・メーカーの霊能まであわせ持つ人物として描かれていることは、その真偽とは別に当時の人びとの実朝に対する最大級の評価を表していることになる」(山本幸司『頼朝の天下草創』、 「日本の歴史」第九巻、講談社)。つまり、実朝による祈願は、将軍としては前例のないことであり、実に異常なことであったのである。
一方、天皇が祈願することは珍しいことではなかった。実朝以前の政治状況を概観するなら、武力による支配は鎌倉幕府が、祭祀や儀礼を通じての支配は朝廷が分担していたように見える。ところが、実朝が将軍であった時代には、幕府と朝廷の間における支配の分担の境界線があいまいになり、将軍が祭祀や儀礼の領域にまで進出してきた。
伊藤喜良氏によれば、「国土安穏・万民快楽・徳政の興行というような帝王としての役割は、少なくとも初期における源氏将軍にはそのような権威はそなわっていなく、将軍では代位できなかった」。その後、幕府による支配の長期化に伴い、将軍・実朝は支配の基盤をより強固なものとするために朝廷から「呪術的要素や儀礼」を「移入」した(伊藤喜良『日本中世の王権と権威』、思文閣出版)。先に述べたように一二一四年は夏の季候が安定しない年であったと同時に、将軍による支配のありようが変化した年でもあったのである。このような時期に、親鸞聖人の関東での生活がはじまったのである。
一二一四年は、その時代を生きた人々にとって異常な年であった。今日から見れば、そのような異常な年を幾度も経験しながら、人類は歴史を形成してきた、と言うこともできるだろう。人類が経験したことのない事態に直面している今、忘れてはならないことは、異常な年を経て今があるという事実である。異常な年も連綿とした歴史の流れの中にある。歴史の中で孤立したり、隔絶したりしているわけではない。この一年は確かに未来へとつながっているのである。
(『ともしび』2011年10月号掲載)
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