宗祖としての親鸞聖人に遇う

有縁の法による

(安藤 義浩 教学研究所助手)

 先日、日蓮宗主催のセミナーに参加した。このセミナーは日蓮宗教師・寺族・檀信徒を対象に二十年以上開催されている。今回、当教学研究所も招待を受け、聴講することができた。
 二百人を超える会場のほぼ全員(私と本願寺派の一名を除く)が、おそらくは日蓮聖人を宗祖と仰ぐ方々だった。日蓮聖人といえば、その著『立正安国論』で、「法然というものあり。『選択集』を作る。すなわち一代の聖教を破し、あまねく十方の衆生を迷わす」と述べ、念仏の教えに対して異論を唱えた人物である。いささかアウエーの感がないわけではなかったが、同じ仏教でありながら立場の違う方々の考えに直接触れられることに胸躍った。それは親鸞聖人の教えのみを学んでおけばそれでよしとしようとする(これは聖人の願いではなく、したがって教えを学ぶことにはならないだろう)、私の閉鎖的かつ怠惰な日頃の姿勢への自身が抱く危機感の裏返しでもあった。
 今回のテーマは「震災と祈り―立正安国とは何か」だった。開会に先立って「南無妙法蓮華経」とお題目が唱えられた。外部宗教学者一名、そして宗派講学識と呼ばれる碩学二名によって発題と討議がなされた。「よいことをしたからといって、よい結果が出るとはかぎらない不条理の世界だからこそ、この世は菩薩行をするのにふさわしいんです」と語られた碩学のおひとりの言葉は力強かった。その後すぐに「そう信じたいのです」と言い直されたところにはその方の実直な人柄がうかがえた。
 セミナーの議論のひとつは、昨年物議を醸した震災天罰論についてどのように受け止めていくかであった(日蓮聖人は「国が正法を失えば大災害がおこる」と言い、弟子にあてた手紙には「天この国を罰す」という表現がある)。震災を単に「生死無常」ととらえることは無責任対応に陥りやすい、そうではなくむしろ「天罰」という言葉で受け止めたほうが、自分のこととして主体的に考えていけるのではないか、というのが全体の論調だった。
 議論はさらに、生き残った者ができることは何かということに進んだ。一人ひとりが法華信仰を確かめ直していかなければならないという見解に大変共感を覚えた。「法華信仰」の部分を「親鸞の教え」に置き換えれば、私たち真宗門徒の取るべき姿勢となるだろう。
 それぞれがその縁にしたがって、それぞれの宗祖に出遇っている、出遇いたいと願っている。このことを実感したセミナーだった。
(『ともしび』2012年4月号掲載)

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