心がおこる
(松林 至 教学研究所嘱託研究員)
「発心」という言葉は、道心をおこす、菩提心をおこす、という意から転じて、一般には仏門の入門に限らず、目的意識を持って何かを思い立つ意として用いられる。
あるとき、タレントの小泉今日子さんが、「いつ歌手になろうと思ったのですか?」と尋ねられ、「歌手になってからです」と答えていたことに、なるほどと思った。歌手になる前から明確な動機があるはずだと思うと、ぽかんとしてしまうが、歌手になってみてから、はっきりと歌手になりたいと思った、と言うのは率直な思いだったのではないか。目指したきっかけはあったとしても、その気になるということは、その場に身を置くことで、場のほうから引き出してもらうものなのかもしれない。
さて、この私が、お念仏の教えを聞かせてもらおうと思ったのはいつですかと尋ねられるとどうであろう。お寺に生まれたことが大きなきっかけとしてあるにせよ、いつの間にか聴聞の場に身を置いていた。しかし、実感として大きなことは、聴聞の場に身を置くことを通して、聴聞していかねばならないという心を引き出してもらっているということである。私が思い立って聴聞の場に足を運んでいる、というより、教えのほうから聴聞する気を起こしてもらっているように感じるのである。聞法する機会に出遇ったことは不思議としかいってみようがないが、私が、先立って教えを聞こうという心をおこすのではない。教えに触れて、教えを聞いていこうという心を賜るのである。
親鸞聖人は、
たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。(「総序」聖典一四九頁)
と、念仏の教えに出遇わせてくださった「宿縁」に対する慶びを表白されている。そして、その慶びについて、
「慶」は、うべきことをえて、のちによろこぶこころなり。(『一念多念文意』聖典五三九頁)
と言い表しておられる。つまり、念仏の教えに出遇いえて「のちに」、出遇うべく願われ続けてきたという「宿縁」を知り、よろこんでおられるのである。かねてから「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」(『歎異抄』)と呼びかけられてあったことを今知り、その願いに応えるべきわが身を知らされる。そのよろこびは、目標を実現したときだけの達成感のような、ひと時のよろこびではないのである。教えに出遇うからこそ、教えから問われ続け、教えに聞き続けていく身をいただく。聞法の場は、私を立ち止まらせる場ではなく、教えに触れてみて、いよいよ聞いていかねばならないという心がおこる、歩みだしの場であることを教えられてあるように思う。
すでに聞かせていただいていること、共に聞かせていただく人たちの姿。それらに背中を押されて、私はなんとか聴聞の場に足を運べているのだと感じている。
(『ともしび』2012年7月号掲載)
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