宗祖としての親鸞聖人に遇う

山を出でて

(蓑輪 秀邦 教学研究所長)

 「山を出(い)でて、六角堂に百日こもらせて給いて…」これは、親鸞聖人命終の知らせを受けた越後住いの妻恵信尼が末娘覚信尼へ宛てた返信の手紙の冒頭の一節である。「山を出でて…」―私はこの文字を読むと、曽我量深先生が『精神界』に載せられた「出山(しゅっせん)の釈尊を念じて」という文の次の一節を思う。「我は徒(いたずら)に出家入山の釈尊を逐(お)ふて、出山の釈尊を知らなかった。釈尊は已(すで)に山を出でて、聚落(じゅらく)に来り、又霊山法華(りょうぜんほっけ)の会座を没(もっ)して王宮(おうぐう)に降臨ましましたではないか。惟(おも)ふに釈尊入山の後を遂ふは小乗仏教であり、釈尊出山の大精神より出立するが大乗仏教である」と。
 「山を出でる」ということは大乗仏教の道を歩む者の必然の道であると曽我先生はおっしゃる。そうであれば、この恵信尼の手紙の冒頭は、親鸞によって誓願一仏乗たる浄土の真宗が開かれる契機となった出山の経緯を覚信尼に伝える大事な手紙となる。手紙は出山からはじまって六角堂夢告→法然上人との出会い→上人への帰依→下妻での夢→恵信尼の親鸞帰依の表白→覚信尼への同意の催促…と続く。長い手紙だが,内容は豊かで深い。
 『大経』が説く釈尊の入山は、「老病死を見て世の非常を悟る。国の財位を棄てて山に入りて道を学したまう」と述べられている。しかし、その入山においての悟りは、梵天による転法輪の勧請によって出山へと転じ、「もろもろの庶類のために請せざる友と作(な)る」のである。仏道とは、この入山から出山へと転ずる道程を指すのだろう。世間に背を向けて山に入って学んだ者が、そのままそこに居座ったら仏道は消滅する。声聞とはそこに居座る者を言う。だから「声聞は…仏道の根芽を生ずべからず」と曇鸞は言う。
 ふりかえって恵信尼の手紙を読むと、冒頭の短い文のあと、「山を出でて…」と親鸞の出山を語りだす。推定だが、恵信尼は覚信尼の手紙の中に、父への不信が潜んでいることを感じたのではないか。あのころの時代は、古代から中世への急激な転換期で、世情が混乱を極め、加えて地震・台風・洪水・冷害・干ばつ・大火などが頻発し、その結果として凶作・飢饉・疫病などがうち続き、民衆は明日ともしらぬ命におびえながら苦境にあえいでいた。
 しかし、そのような苦悩に寄り添うべきはずの仏教は、密教的修法による加持祈祷や浄土教的な臨終来迎往生説などによって一時的な慰安を与えるに過ぎなかった。そのような社会の雰囲気の中に育った覚信尼は、父の臨終に何の奇瑞も起こらなかったことに疑問をもち、その父の一生の歩みが声聞的であったと誤解したのではないか。
 「山を出でて」からはじまる恵信尼の手紙は、その覚信尼の不信を氷解させ、親鸞への崇敬と帰依の念を生じさせた。そのように思うと、覚信尼から始まる本廟護持の精神は、この手紙から出発したように思われる。ともあれ、この恵信尼の手紙は、われわれ真宗人が立脚すべき地(じ)を示したものと言えるのではないだろうか。

(『ともしび』2012年11月号掲載)

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