「いなか」はどこにあるか
(藤井 祐介? 教学研究所嘱託研究員)
いなかのひとびとの、文字のこころもしらず、あさましき愚痴きわまりなきゆえに、やすくこころえさせんとて、おなじことを、たびたびとりかえしとりかえし、かきつけたり。……(聖典559頁)
以前から「いなか」という言葉の語感が気になっていた。「いなか」という言葉は都会から遠く離れた土地、あるいは郷里といった意味で用いられることが多いように思われる。親鸞聖人の時代も同じ意味で「いなか」という言葉が用いられたのだろうか。『日本国語大辞典』(小学館)によれば、「いなか」は「中世では京都郊外よりさらに外の地、また単に地方の意にも使われたらしい」とあり、この他にも「上代のいわゆる両貫貴族の本貫の地、すなわち生産を営む場をさす場合」もあったと説明されている。「いなか」が「生産を営む場」に近い意味で用いられている例として『方丈記』の次の部分を挙げることができる。
……京のならひ、何わざにつけても、みなもとは田舎をこそ頼めるに、絶えて上るものなければ、さのみやは操もつくりあへん。……(『日本古典文学大系』第30巻、岩波書店)
鴨長明は養和元年(1181)年前後の時期を回想して、当時の世の中の動きについて述べている。親鸞聖人が出家された時期のことである。都の物質的な豊かさは「いなか」から集積された富を基礎としている。豊かさの源泉は「いなか」にあったのである。長明は災害に関する記述を通じて、「いなか」に依存した都の生活が脆弱であることを指摘している。物質的な豊かさに内実がないと認識していたからこそ長明は必要最小限の「方丈」(畳の間で言えば四畳半)の生活を実践したのである。
もう少し広い視野から解釈するならば、鴨長明や親鸞聖人の時代には、「いなか」から都へと向かう富の流れが変化しつつあった。平安時代後期において「院の権力は、諸国の富を集め、蕩尽する装置として機能した」。だが、平氏政権の終わりとともに、支配者が統率する一極集中的な「蕩尽する装置」にもほころびが生じて、「荘園領主の経済圏と金融業者の経済圏とが互いに支えあい、表裏を成す体制」へと移行した(本郷恵子『蕩尽する中世』新潮社)。当時の人々は都の華美な文化が朽ち果てる姿を眺めつつ、「みなもとは田舎」という実感を共有していたのではないだろうか。
現代においても「みなもとは田舎」という表現は過去のものではない。都市の内部で自給自足の経済圏が確立できない以上、つねに「みなもとは田舎」である。だが、生産・流通・消費が世界市場と結びついた現代において、一国の内部に「いなか」を発見することは稀である。例えば、コンピュータ機器を分解すると、複数の国で製造された部品が国境を越えて一つの枠の中に収まっていることに気がつく。このような場合、生産の場である「いなか」を特定することはできるのだろうか。おそらく、現代の「いなか」は、複数の国々がつながり合う関係性の中に存在するのだろう。
(『ともしび』2013年1月号掲載)
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