宗祖としての親鸞聖人に遇う

花からの愛情

(高間 重光? 教学研究所所員)

 「癒し」ということが最近よく言われるが、それはいま私たちが、さまざまなストレスで日々疲れ切っていることの裏返しであろう。確かにそうだと思う。
 昨年の春以来、大阪の南河内から京都の教学研究所まで通勤している。京都駅から高倉会館の裏手にある教学研究所の建物まで歩いて十五分程度だが、その途中に、道路際に鉢植えの花をいくつも並べておられる家がある。四季折々に、いろんな花が顔をのぞかせている。毎朝その家の前を通りながら、何かホッとするものを感じさせてもらっている。
 長い花だと、下の方から上の方へ次々と二ヶ月ぐらい咲き続けるものもある。最後の一輪が咲き終わる時には、長い間楽しませてくれて有り難うと、お礼を言いたい気持ちになったりもする。花の世話をしておられるその家の方を見かけることもあるのだが、「いつも楽しませてもらっています」と挨拶をさせて頂きたいところだが、見ず知らずの私がいきなり声をかけたら、きっと驚かれるであろうと、そのことは果たせないでいる。
 以前、平野修先生が、「化身土末巻」の『大集経』「月蔵分」の「地の精気・衆生の精気・正法の精気」(聖典三七七頁)に触れての講義の時であったと記憶しているのだが、「皆さんは、なぜ私たちが花によって癒されると思いますか。それは、花たちが私たちに愛情をそそいでくれているからですよ」というお話をされたことがある。
 多くの人は、この話を聞いたときに、動物でもない植物である花に愛情というような心があるはずがない、と思うにちがいない。そのような私たちの思いを、平野先生は見透かしておられたのだろう。その言葉に続いて「月蔵分」の「地の精気」という経言を紹介されて、「このように大地に心があるように、花にも心があるんですよ。」と話された。
 私はそれ以来、いろんな花に出会うたびに、とくに行きずりに花に出会うとき、平野先生のその言葉を思い出す。そしてますます、花たちが私たちに愛情をそそいでくれているということは間違いのないことだ、という感を深めている。ご縁を頂いたお寺の法話でも、時にこのお話を紹介している。
 いのちというものが、いよいよ見えにくくなっているという現状がいま社会の中にある。先日も大阪でホームレスの人たちを手当たりしだいに襲っている若者の記事が載っていた。他人のいのちを軽く扱ってしまうということは、おそらく自分のいのちの尊さにも出会えていないのであろう。そしてその根本には、彼ら自身が「愛されている」という実感を持ったことがない、ということがあるのではないか。
 七五〇年前、親鸞聖人はどのように花々と出会っておられたのであろうか。

(『ともしび』2013年2月号掲載)

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