師教の恩厚を仰ぐ
(蓑輪 秀邦 教学研究所長)
『小倉百人一首』の撰者として名高い藤原定家(一一六二~一二四一)は、宗祖と十一歳上の同時代人である。彼は一一八〇年(十八歳)から五十六年間にわたり、ほぼ毎日日記を綴った。その全文が、のちに『明月記』と題して世に出、公家の世から武士の世へと転換していく中世初期の社会のありさまが知れる貴重な史料となった。
その日記の一二〇七(建永二)年一月から三月にかけての記を見ると、宗祖が越後へ遠流となった「承元の法難」に関する生々しい記事が散見される。まず一月二十四日の日記に、次のような記事があらわれる。
「専修念仏ノ輩(やから)停止(ちょうじ)ノ事、重ネテ宣下スベシト云々(専修念仏を広める人々に対して、再び停止せよとの天皇の命令がおりた)」〔以下( )内は意訳〕と。続いて二月九日、「近日、只一向専修の沙汰。搦メ取ラレ、拷問サルト云々。筆端ノ及ブ所ニアラズ(近頃は、毎日一向専修の人々の裁判がどうなったのかという話ばかり。今日は数人が捕縛されて拷問を受けているとのこと。その有り様は筆に書きとめられないほど過酷なものである)」。
そして二月十八日、裁決が出、住蓮・安楽など四名斬首、法然・親鸞など八名、俗名を与えられて遠流に処され、三月十六日、還俗させられ俗名藤井元彦となった法然が鳥羽の近くで乗船したと言われている。
この三月十六日の出来事については、『親鸞聖人正明伝』に更に詳しく、次のように語られている。
「(三月十六日)午ノ時(正午)、源空上人、華洛(京都)ヲ出テ配所ニ赴タマフ。(中略)同十六日卯初刻(午前五時),善信聖人(親鸞)出京ナリ。コレ空上人イマダ都ニマシマス内ニ、片時モ先立テ洛ヲ出ムトテ,兼テ送使ノ許ヘタノミタマヘバナリ(わずかな時間でも先に出発して都を出たいと思い、前もって送使役の人に頼んでおいたからである)」。
流刑の地へ出発する師の背中を弟子が見送ることは、師に我が身の罪を背負わせることになる。そう直感した宗祖は、すべての罪を一身に背負い、暁天のときを待って越後の国へと旅立たれたのだろう。一方、法然上人の伝記には、配所に旅立つときの上人の言葉が次のように残されている。
「流刑さらにうらみとすべからず(中略)、念仏の興行、洛陽(京の都)にしてとしひさし、辺鄙(へんぴ)におもむきて、田夫野人(でんぷやじん)をすすめん事、季来(としごろ)の本意なり。しかれども時いたらずして、素意いまだはたさず。いまの事の縁によりて、季来の本意をとげん事、すこぶる朝恩ともいふべし」(『法然上人行状絵図』第三三)
この言葉は、やがて宗祖の目にも止まっただろう。宗祖はこれを受けて、『教行信証』「後序」末で「深く如来の矜哀を知りて、良(まこと)に師教の恩厚を仰ぐ」と述べておられる。法難を逆縁として、「朝恩(朝廷の恩)」といただかれた師法然と、それを「師教の恩厚」と仰いで、ここに凡愚救済の仏道があきらかに開かれる時が熟したとして、「慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し」と受けられた宗祖との見事な応答が、「承元の法難」という一過性の出来事に永遠の真理性をもたらしたのである。
(『ともしび』2013年11月号掲載)
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