念仏における二つの特徴
(武田 未来雄 教学研究所研究員)
曽我量深師は、親鸞聖人と法然上人の念仏における趣の違いを次のように指摘する。
「法然聖人は果して本願を憶念することに依りて念仏を唱へられた乎、将(は)た念仏の声に導かれて本願力を憶念せられた乎。是れ須要の研究問題である。此憶念と称名との因果前後の関係が法然、親鸞二師の信念の色味を異ならしめた要点である。親鸞聖人は先づ本願力を憶念して、此憶念の心が顕はれて称名となった。然るに、法然聖人の傾向は正しく反対であった。彼は先づ忽然として称名の声が現はれ、此声の上に本願力の虚しからざることを憶念し給ひた」
(「大闇黒の仏心を見よ」『曽我量深選集二巻』三〇三頁)。
これは、法然上人には「日課七万遍」などと言われる、毎日お念仏を称えていた伝承があるのに対して、親鸞聖人にはそのようなお念仏を熱心に励むことがなく、その相違を論じているものである。
この二つの違いを単純化して表せば、先に念仏を称えてから本願を憶念するか、本願を憶念してから、そこに自然に念仏を申すかの違いである。その一つ目の特徴は意志実行の念仏で、この念仏の声に往生決定や本願力を証し、開顕しようとするものと表されている。もう一つは瞑想的な感謝の想いから出る念仏で、まず決定往生を確信し、その確信が感謝の想いとなり、その表明としての念仏の声となったものと言われる。
師は、この違いは教義意見の違いではなく、人格上の相違であると言われる。私は、この違いは、その生きられた時代の違い、その立場による課題の違いであるとも思うのである。
というのも、法然上人の時の課題は、新しく浄土宗を独立し、専修念仏を広めていくことにあった。そのような新しい宗を興こす場合は、まずもって念仏を称えることが重視されたのではないだろうか。それに対して、親鸞聖人の立場は、すでに多くの専修念仏者が居るなかでは、むしろ真実に念仏する意義、念仏をする心の在り方をよくよく思案することが課題となったと思われる。そのような課題の違いから、それぞれの特徴が出てきたと言えるのである。
そこで問題は、我々が生きている現代の状況にはどのような課題があるかである。この事をよくよく考える必要があるのではないだろうか。現代は、核家族化がすすみ、御内仏の無い家が増え、信心が相続せず、念仏を申す機会など、圧倒的に減少しているといえよう。
このような教えが伝統相続していくことの危機的な状況にあっては、法然上人のように念仏を称える声、念仏を称えるすがたを積極的に表現する必要があるのではないだろうか。念仏に生きる人を通さなければ、どれだけ理屈を重ねても、阿弥陀仏の本願のはたらきや浄土の存在についても、伝わらないからである。
具体的に称えられる念仏の声、御本尊を前に合掌・念仏を申す後ろすがた、そうしたことがだんだん貴重となってきているのである。
(『ともしび』2014年2月号掲載)
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