宗祖としての親鸞聖人に遇う

在家止住

(上場 顕雄 教学研究所嘱託研究員)

蓮如上人の

「末代無智の、在家止住の男女たらんともがらは」(聖典八三二頁)

で始まる「御文」は誰もがよく聞き、日常的にも親しんでいる。上人は第十八願の念仏往生の誓願を簡潔に述べられているのが主旨である。
 この中にある「在家止住」の文言に筆者は心がひかれる。我々は滝にうたれ、山にこもるなど修行をしなくて、家庭生活を営みながら仏道を歩み、仏心を聞けるからである。いわゆる修行は特別な人ができるのであり、一般職業に従事している人は不可能に近い。

 また、在家・家庭生活を営む中で、人間関係や周辺環境、あるいは怒りやおごりに接し、悩んだり苦しんだりする。罪業や我執を感得するのも家庭生活の中からではないだろうか。もちろん、楽しみや喜びも家庭生活や出会いの中から、わかちあえることが多い。
 そのようなことを考えると、宗祖の家庭生活はどのようであっただろうかと推測する。宗祖は自らの私的なことは語っておられない。であるから、「恵信尼文書」や覚信尼の行状から推察せざるをえない。
 宗祖と恵信尼との結婚の時期は従来より諸説がある。また最近、梅原猛氏が「玉日」との結婚も背定的に論じておられる(「芸術新潮」二〇一四年三月号)。
 少なくとも越後時代は家庭をもっておられたことは確かである。越後での宗祖の具体的な生活基盤・実態などは明確にできないが、承元五年(一二一一)宗祖三十九歳の時、息男信蓮房が誕生している。いわば「子育て」をしながらの日暮らしであられた。また、越後の厳しい寒さ、自然の恵み、温かい人の心、人間同士の醜さ、漁業、狩猟にたずさわる人々などの風景を眼前にされ、肌で感じられたことと推察できよう。
 また、「恵信尼文書」にある、宗祖が高熱の病気、恵信尼が夢でみられた夫婦の会話などから、あらためて宗祖の教えを多視的に求めようと筆者は考える。
 覚信尼は宗祖五十二歳の時、関東で誕生され、宗祖が帰洛後、命終されるまで側におられた。宗祖命終の十年後、覚信尼は再婚された小野宮禅念の土地に大谷廟堂を建立された。
 特筆すべきことは、廟堂・御真影・敷地すべてを、覚信尼が宗祖の門徒、墓所に寄進したことである。所領拡大に精根をむける当時の一般的風潮の中で、覚信尼は廟堂等を門徒共有にしたのである。それは廟堂が永遠に維持・相続されることを願いとされたからであろう。
 覚信尼が常に宗祖の身近におられ、「同朋精神」を自ずと身につけてこられた結果でもあろう。家族や宗祖の門弟方との何気無い会話や「うしろ姿」をみて育たれ、体得された覚信尼の人柄・真宗精神の行状としても考えられるのではないだろうか。

(『ともしび』2014年5月号掲載)

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