宗祖としての親鸞聖人に遇う

相手の話を聞く

(松林 至 教学研究所嘱託研究員)

 以前、本山・同朋会館に、

人間を尊重するということは、相手の話を最後まで静かに聞くことである。

(安田理深師)

ということばが掲げられていた。全国から奉仕団や研修会等で上山される方々が聞法し、様々な話を交わす。 そんな場において、ことさらに味わいがあることばだと感じたのだが、我が身に問えば「相手の話を最後まで静かに聞く」ことが容易ならないといつも思い知らされている。
 先日、原発事故による被災が今なお続いている福島を訪れた。地元の方々にお話を伺うと、震災当時のことや、今も苦しんでおられる状況を色々とお話しくださった。涙ながらに話をされる姿などに触れると、私に何かできることはないのだろうかという思いを改めて持つ。しかしそこで印象的だったのは、こちらからお願いしてお話しいただいた方々の多くが、「話を聞いてくださってありがとうございました」と口々におっしゃったことであった。
 「話を聞いてくれる人がまだいる。そう思えるだけで明日からもうちょっとだけがんばってみようかな、という気持ちになります」。そう言われたとき、今の原発の問題を外から眺め、「どうしたらいいか」「私は何をすべきか」ということばかりを考えていた私には、「まずは私たちの話を聞いてください」と叱られたように感じられ、はっとした。それがいつでも自分のところだけで「どうすべきか」と考えていて、「相手の話を聞く」ことが抜け落ちる私の姿である。
 このことは心がけ一つで劇的に変われるような根の浅いものではないと思う。表向きは静かにしていたとしても、心の中では黙っていないようなものを抱えていて、耳を傾けても私はせいぜい自分の都合でしか人の話を聞けない。

 蓮如上人が、聞法において、

一句一言を聴聞するとも、ただ、得手に法をきくなり。ただ、よく聞き、心中のとおり、同行にあい談合すべきことなり

(『蓮如上人御一代記聞書』一三七条 聖典八七九頁)

と指摘されている。このことを私は、「法を得手に聞いてはいけない」とおっしゃったのではなく、「得手にしか聞けないことを知らされていく大切さ」を説かれているのだといただいている。 そのはたらきこそが聞法の場が持っている座の功徳であると教えられているのではないか。談合することでしか、自分の「得手に聞く」姿には気づいていけない。 「よく聞き、談合する」ということは、自分の聞かせてもらったところを語ることでもあるし、「相手の話を最後まで静かに聞く」ことでもある。だれもが得手にしか聞けない者として、 「一人では聞法はできない」ということをはっきりされたのが蓮如上人のことばであったのだと思う。

 共にたずねる人があることが在り難いことであり、「相手の話を最後まで静かに聞くこと」は、他人を尊重することに留まらず、自身の歩みを大切にしていくことに重なっている。

(『ともしび』2014年6月号掲載)

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