東国伝道八〇〇年
(御手洗隆明 教学研究所研究員)
東国とは、古くは京都より東の地方を指し、やがて関東・東北の国々を意味した。四十一歳の親鸞聖人が上野国「さぬき」(群馬)に至ったのは建保二(一二一四)年とされ、「浄土三部経千部読誦」の逸話が妻恵信尼によって伝えられている。すると、本年は聖人の東国伝道開始より八〇〇年目に当たる。この春、教学研究所「真宗の歴史研究班」は、この地域の風土と歴史を直に感じ、今後の研究の糧とするため、主に茨城県の笠間から常陸太田を中心とした関東御旧跡を参拝した。
茨城県は三年前の東日本大震災において,県内全域で震度5弱以上の本震と同規模の余震を観測し、北茨城市などの沿岸部は最大六・九mの津波に遭い、原発災害の影響を受けた。特に笠間など八市は震度六強の烈震であり、現在も残る震災の傷跡を目にすると今さらながら被害の大きさに気づかされた。
この地域に伝わる浄土真宗の歴史が、聖人とその門弟たちの伝道を始原とすることに変わりはないが、それに加えて、この始原を受け伝えてきた真宗門徒の歴史についての関心が、特に震災以降高まってきたように思われる。それは、江戸時代後期に北陸地方から北関東に移住し、飢饉などの災害によって荒廃した村々の復興へ力を尽くしたとされる「真宗移民」の歴史についてである。
現在の笠間から水戸へかけての一帯には聖人の東国伝道を偲び、また真宗移民の記憶を伝える寺院が点在する。聖人の稲田草庵跡とされる西念寺は
「かの国(加賀藩領)にあふれる民俗を引き入れ、荒田を開発せしめ風儀をここに移さば」(「入百姓発端之記」)
と記した移民史料を伝え、近接する林照寺は移民門徒による本堂再建の逸話と「蓮如上人四幅絵伝」を伝えている。真宗移民は単なる移民労働者ではなく、真宗門徒としての生活文化を持ち込むことが期待されていたのである。
また門弟唯信を開基とする宍戸の唯信寺は、十九代唯定の時代に西念寺と共に北陸門徒より移民を募り、入植門徒の子孫は現在でも唯信寺門徒の七割を占めるという。いずれも文化文政年間(一八〇〇年代前半)のことである。農民など庶民の移動が厳しく制限されていた当時、移民たちは関東旧跡巡拝を口実に北陸を離れたとされ、同寺本堂に掲げられる当時の通行許可証である「往来切手の事」からは苦難の歴史が偲ばれる。
今回、私は御旧跡を訪ねながら、移民門徒の歩んだ道をたどっているような想いに駆られた。一説に移民門徒は更に東国を進み、やがて福島県浜通り北部の旧相馬中村藩領(相双地方)に到達した。聖人五五〇回忌の年(一八一一)のことである。聖人が志した東国伝道は後世の真宗門徒によって受け継がれ、この地に浄土真宗が根づいていった。現在、東電の原発災害が続く仙台教区浜組相双地域では、震災復興が実現する世界を共に考える場として「相馬親鸞教室」を開催し、真宗移民の歴史を学んでいる。
(『ともしび』2014年7月号掲載)
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