苦難の果てに目指されたもの―教如上人と東本願寺―
(百武 涼子 教学研究所嘱託研究員)
開山親鸞聖人のことは真宗門徒のみならず、多くの人びとが知っている。その一方で、東本願寺を開かれた教如上人のご事績についてはあまり知られていないように思われる。二〇一三年は教如上人が示寂されてから四〇〇回忌の年に当たり、本山や各教区で法要が営まれた。これを機縁として、教如上人のご遺徳やそのご生涯に出遇われた方も多いだろう。教如上人は戦国動乱のなかで織田信長や豊臣秀吉と渡り合い、その後徳川家康の取り立てを受けて、現在真宗本廟が立地する烏丸七条に寺地を寄進されて東本願寺を創立された。
大坂(石山)本願寺に生まれた上人は、約十一年にもわたった織田信長との石山合戦の中で青年期までを過ごすことになった。和睦が成って父・顕如上人が大坂退去を決意された時、聖人御座所である大坂の地を守ることを訴え、顕如上人から義絶をされてまでも、籠城を続けられた。しかし、籠城も続きがたく、大坂を退去された後は、顕如上人との父子和解までの二年ほど、北陸・中部地方を中心に流浪(秘回)されることとなる。顕如上人遷化の後、本願寺住職を継職するも、ほどなく秀吉から引退を命じられるというように、苦難連続する人生を送られた。そのような苦難に遭いつつも、なぜ東本願寺を開創するまで歩み続けられたのだろうか。
諸国秘回の期間、教如上人は立寄った各地で多くの人びとに手厚く護られ、もてなされたという。当時は寺院というよりは、道場と呼ばれる地域の集会所のような場所に門徒方が集まり念仏されていた。大坂の地で仏法相続のために命を賭して集う人びとに出会い、秘回先でも念仏に生きる人びとに出会った教如上人は、このような場を何としても守り伝えていかなければならないと思われたのではなかろうか。
先般、ご縁あって滋賀県のある寺院で法宝物を拝見する機会を得た。元亀二年(一五七一)の信長による比叡山焼き討ちで失われた法宝物も多いとのことであったが、蓮如上人以来のゆかりの品々も数多く現存していた。その中に、教如上人が授与された顕如上人の御影や、教如上人の寿像などが大切に保管されていた。
由緒書によると、秀吉が上人に引退を命じた際、日本全国に教如上人に仕えてはならないというお触れが出たが、当時のご住職が身の危険も顧みず、ひそかに教如上人のもとへ駆けつけ身の周りの世話をされたという。また、関ヶ原合戦の折、教如上人の家康陣中見舞いに、その寺院の門徒方が随行したとされ、その忠義に対して授与されたのが寿像などであるらしい。こうした教如上人の想いに感謝した門徒方が、上人を地元の蓮見物に案内したという逸話なども残されており、各地僧俗の教如上人を慕う想いと、その想いに応えんとされる教如上人の姿を伝える物語である。
教如上人、そして教如上人とともに歩んだ先人たちの願いの上にある念仏の道場が東本願寺(真宗本廟)なのである。そのような場に集わせていただけることのありがたさを改めて感じている。
(『ともしび』2015年1月号掲載)
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