宗祖としての親鸞聖人に遇う

身をすてて、平坐にて、みなと同坐する

(名畑 直日児 教学研究所研究員)

仰せに、「身をすてて、平坐にて、みなと同坐するは、聖人のおおせに、「四海の信心のひとは、みな兄弟」と仰せられたれば、われも、その御ことばのごとくなり。

(『蓮如上人御一代記聞書』〈以下『聞書』〉第三十九条、聖典八六二頁)

 この言葉は、蓮如上人の門弟が、上人の言葉や相(すがた)に触れたところから記された言葉として、今の私たちにまで伝わっているものである。
 それまでの本願寺の住持は、「上段」に坐る習わしであったが、蓮如上人が「上臈(じょうろう)ふるまい」をしてはならないと語られたこと(『本願寺作法之次第』(『真宗聖教全書』第二巻五六八頁)を背景にしていると思われる。上人は、平等主義と権威主義の矛盾に苦しんだと言われることもあるが、「身をすてて、平坐にて」の中には、本願寺住持としての上人が、門徒と向き合っていかれた覚悟のようなものが感じられる。
 この言葉は上人の門弟が書き取ったものだが、上人自身は、御文第一帖第一通に、

故聖人のおおせには、「親鸞は弟子一人ももたず」とこそ、おおせられ候いつれ。(中略)聖人は御同朋御同行とこそかしずきておおせられけり。(聖典七六〇頁)

と記されている。蓮如上人は、親鸞聖人の言葉(歎異抄)を聞き取りながら、「御同朋御同行とこそかしずきて」(「かしずく」は、「仕える」の意)という相を示されている。この御文の言葉を見ながら、先の『聞書』の言葉を見直すと、矛盾を矛盾のままにせずに、すんなりと平坐に坐られる上人の相もあるように思われる。すんなりと矛盾を超えながら、その矛盾を無視するのではなく、矛盾と真正面に向き合っておられるといえるかもしれない。
 また『聞書』第二四八条には、

蓮如上人、順誓に対し、仰せられ候う。「法敬と我とは兄弟よ」と、仰せられ候う。(中略)「仏恩を一同にうれば、信心一致のうえは、四海、みな兄弟」と、いえり。(聖典九〇一頁)(「順誓」は、蓮如上人の門弟の一人で法敬坊順誓のこと)

ここには改めて、「仏恩を一同にうれば、信心一致のうえは、四海、みな兄弟」と示されている。
 この『聞書』の文をよく見ると、蓮如上人の側から、兄弟よ、と言われていることがわかる。この言葉が交わされた人間関係を思いながら改めて読み直すと、「信心一致のうえは、四海、みな兄弟」という言葉の持つ意味があるように思われる。
 つまりこの言葉が交わされた背景には、人間関係があるとしても、兄弟であると言われるのは、信心一致のうえにおいてであるということ、人間の上下関係を超えたところに開かれる「兄弟」であるということである。
 「平坐となる」、「兄弟である」ということを口にすることは簡単だが、真に目の前の人に向き合い、声を聞くことの難しさを思うとき、好き嫌い、上下左右といった分別心に縛られる自分の相も見えてくる。改めて「身をすてて、平坐にて、みなと同坐する」上人を思うとき、そこには、南無阿弥陀仏と合掌礼拝される上人の相があるように思われる。

(『ともしび』2015年5月号掲載)

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