宗祖としての親鸞聖人に遇う

帰依と虚仮

(新野 和暢 教学研究所嘱託研究員)

 「あなたにとって、親鸞聖人はどういう方ですか?」先日、ある方からこう問われました。咄嗟に、「近くに感じることもあるが、そう感じれば感じるほど、遠くなっていくような方です」と応えました。予期せぬ質問に慌てふためきながら、頭に浮かんだのは次の和讃でした。

浄土真宗に帰すれども
 真実の心はありがたし
 虚仮不実のわが身にて
 清浄の心もさらになし  (聖典五〇八頁)

 この和讃は、聖人が自らの不確実さ、つまり虚仮でしかあり得ない身を吐露している愚禿悲歎述懐です。聖人は、こうした和讃を十六首あげておられます。自らの不完全さを赤裸々に表明する聖人の姿に人間味を感じ、近い存在として感じることがあります。しかし、それだけに帰結するのであれば、聖人を数ある偉人の一人に数えているに過ぎません。
 課題にすべきは、「浄土真宗に帰すれども」という告白を通じて宗祖としてのすがたが輪郭を帯びるという点です。この、一見して念仏信仰との間で自己否定を含んでいるように受け取れる告白は、逆説的な表現でもって、念仏によって救われることの確信部分が記されています。虚仮の身でありながら、なぜ真宗の教えへと結実していくのかという課題が提示されているのです。
 よくよく考えてみると、自らの未熟さや至らなさ、不確実さというものを知らしめるのは、何も真宗が独占しているわけではありません。自らを見つめるあり方は、宗教や心理学、医療などの幅広い分野で持たれている視座です。ゆえに「なぜ、真宗なのか」という問いを持たざるを得ません。
 聖人は、「修善も雑毒なるゆえに虚仮の行」(「愚禿悲歎述懐」聖典五〇八頁)と、この身の行為を問題にしています。すべての人間の善は欲や怒り、憎しみに汚染されているがゆえに、「雑毒の善」であることを指摘されています。三毒の煩悩がまじっている衆生の働きは、どこまでも雑毒であるというのです。さらに次のように断言しておられます。

もしかくのごとき安心・起行を作すは、たとい身心を苦励して、日夜十二時、急に走め急に作して頭燃を灸うがごとくするもの、すべて「雑毒の善」と名づく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に求生せんと欲するは、これ必ず不可なり。(聖典二一五頁)

私たちが浄土を願ったとしても、それは「雑毒の善」であるため「不可」である、とまで言い切っておられるのです。この身を主体にして求める救いの道は絶たれているという確信が、阿弥陀仏の救いに対する聖人の絶対的な帰依のすがたでしょう。こうしてみると、先の和讃では「浄土真宗に帰すれども」と記していますが、「帰したからこそ」知らしめられた虚仮のすがたであったことは明らかです。
 このように本願によって顕らかになる虚仮の身こそが救われることを、宗祖は表明されたのです。

(『ともしび』2015年6月号掲載)

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