は行
ばか
東京人にアホウ、関西人にバカと罵(ののし)るほど、相手に与えるショッキングな言葉は少ないだろう。この語は、梵語(ぼんご)moha(漢語で「慕何」「莫迦」等と訳す)から転訛(てんか)したものという。釈尊の教えを聴いても理解できず、何が正しいか判断できない愚かなものの意。ところで「馬鹿」の熟語は、秦の二世皇帝の面前で、献上された鹿を指して馬だと言わせ、自らへの臣下の忠順度を測った権力者、趙高の故事に由来するともいわれている。ともあれ、自らの愚かさに気づかず、権力あるものに阿諛追従(あゆついしょう)して恥じないものこそ、真の「ばか」ということになるであろう。
若槻俊秀 大谷大学教授・中国文学
大谷大学発行『学苑余話』生活の中の仏教用語より悲願(ひがん)
真夏の甲子園では選手たちが白熱した試合を見せてくれます。甲子園に出場することは、選手たちには悲願であり、大きな夢が実現した姿なのでしょう。マスコミも出場校に対して「悲願達成」「悲願成就(じょうじゅ)」と、この悲願の大連発です。そのほか、悲願の言葉は、選挙に当選したい悲願、志望校に入りたい悲願、戦争中には敵国に勝利する悲願等々と、無数に使われています。
それらの悲願は、実に、私たち人間が求めてやまない欲望であり、その達成です。それは人間に所属し、人間の心を表す言葉です。だから、たとえ悲願といっても、その人だけに、あるいはその人たちだけに通用する心です。すべての人に通用する心ではありません。
それに対して、仏教で用いられる悲願という言葉は、元来、「仏・菩薩が衆生の苦しみを救うために誓われた願のことで、特に阿弥陀仏の本願をさす言葉」といわれて、どこまでも私たち人間の苦しみを、自分の苦しみとして同悲・同苦する仏の自他平等の心を表しています。それは仏に所属する言葉です。
そのかぎり、この悲願という言葉は、自分の欲望が満足することを生きがいにして生きている私の言葉ではなく、むしろ、そういう自己中心的な私の生き様を問いただして、自他平等の仏の世界に目覚めさせようとする仏の心を端的に表現している言葉なのです。尾畑文正 おばた ぶんしょう・同朋大学教授
月刊『同朋』2002年8月号より不思議(ふしぎ)
人間の心で思いはかることも、言葉で言い表すこともできないことを、「不思議」という。“世にも不思議なことだ”などといって、不思議な事実やはたらきに、人は強い関心と興味をもつ。
宗教の本質も、その不思議性にあると考えて、人は、しばしば宗教に、あるいは宗教者に、人知(じんち)をこえた不思議な能力やはたらきを期待し、その力やはたらきによって、現実の問題を解決しようとするときがある。
しかし仏教は、基本的に自覚の宗教である。それは、仏の智慧(ちえ)に照らして自己を凝視し、自らの生存在に目覚めたつ宗教である。生死苦悩の生を転じて、真実の生に立たしめよという、その本願のはたらきを「不思議」というのである。
親鸞は、中国の浄土の祖師・曇鸞(どんらん)の『浄土論註(じょうどろんちゅう)』の教えによって、「いつつの不思議をとくなかに仏法不思議にしくぞなき仏法不思議ということは弥陀の弘誓(ぐぜい)になづけたり」と詠(うた)っている。奇蹟や奇怪の不思議ではなく、仏法が不思議である、と。阿弥陀仏が、すべての衆生(しゅじょう)を仏の国にあらしめたいと願い、もし生まれなければ仏は正覚(しょうがく)を取らない、と誓いつづける本願のほかに、真の不思議はない、というのである。
さらに親鸞は、仏の本願との出遇(あ)いに開かれるものを、インドの大乗の論師(ろんじ)・世親(せしん)の教言に導かれて、次のように詠っている。「本願力にあいぬればむなしくすぐるひとぞなき功徳(くどく)の宝海(ほうかい)みちみちて煩悩(ぼんのう)の濁水(じょくすい)へだてなし」“仏の国に生まれよ、もし生まれなければ、仏は仏とはなるまい”と誓い、招喚(しょうかん)する仏の本願に、ひとたび出遇うならば、いかなる人も、空しく過ぎる生の惨めさに打ち勝って、仏の功徳を、この身に賜わって生きるものとなる、というのである。空過(くうか)する人生を転じて、仏の功徳を生きる生の誕生、このような生の転換(てんかん)、転成(てんじょう)のほかに、不思議、不可思議とよぶ事実はあるまい。小野蓮明 大谷大学教授・真宗学
大谷大学発行『学苑余話』生活の中の仏教用語より法螺を吹く(ほらをふく)
「法の鼓を打ち鳴らし、法螺を吹き、法の剣をとり、法の幢を建て、法の雷を震い…」(『真宗聖典』3頁)
『大無量寿経』には、目覚めた法を衆生に説きひろめる仏・菩薩の姿が、さまざまな事柄にたとえられています。「法螺を吹く」ということも、そのひとつです。
これは、説法の場に人々が集まってくる様子を、巻貝(螺)で作った楽器を吹き鳴らして人々を集めたことに、たとえたものです。「法螺貝」という名そのものが、仏法を説きひろめる螺という意味を示しています。
ところが、法螺の音色を聞いて集まってみると、そこにいたのは「ほら吹き(実力以上に、いつも大げさなことを言う人)」だった…。
法螺を吹くように人々に法を説いてまわったのはお釈迦様でした。しかしその弟子である私たちが、法螺を吹くというたとえを「うそをつく」ことに変質させてしまったのにまちがいありません。
源信僧都の『往生要集』には、地獄に堕ちる者として「虚食信施者(むなしく信者の布施を食べる者)」が説かれています。また「不浄説法(覚ってもいないのに、さも覚ったように説法すること)」の者は餓鬼道に、そして信者の布施を自分のものにしながら、まったく罪の意識のない者は畜生道に堕ちると説かれています。地獄とは、仏弟子であることを名のった者だけが堕ちるのです。
私たちはその地獄の底で、私たちのために鳴りひびく「法螺の音」をこそ、真剣に聞かなくてはならないのです。埴山和成 はにやま かずなり・大谷専修学院指導補
月刊『同朋』2003年11月号より