ら行
利益(りやく)
人はたえず自分の利益(りえき)を求めて生きる。この現実の社会全体が、すでに利益社会と呼ばれて、利潤追求の機構となっている。さまざまな関係結合の紐帯が、利益的関心に置かれていて、それが近代社会の基本的な要素の一つとなっている。いわゆる利分、得分(もうけ、とく)の関心で成り立っている、といってよい。
宗教においても、人の祈りに応じて利益をもたらしてくれるのが、よい宗教であると考える人がいる。人の祈りにも、集団における共同祈願と個人的な祈りがあるといわれ、たとえば、雨乞い、日乞い、疫病送りとか、息災延命、家内安全、商売繁昌など、多種多様の祈りがある。人は、現実の生活苦からの離脱を求めて祈りつづけ、その恵みとして与えられた恩恵を、ご利益(りやく)というている。
しかし利益ということには、自分が利益を得るということだけでなく、他の人を益(えき)するということ、恵みを与えるということがなければならない。仏教では、仏の教えに生きて得られた恩恵を、自利・利他の益(やく)として明らかにしている。自ら利益を得ることは同時に、他の人びとを利益することでなければならない。それが菩薩の精神であり、実践である。
仏の教えによって得られる利益(りやく)は、金銭上や物質上の利益ではなく、自らの生存在に自覚的に醒さめて生きる、自覚者の誕生である。釈尊は、その誕生のときに、七歩あゆまれて天を指さし、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)」と叫ばれたといわれる。それは、世の中で自分が最も偉いというのではなく、自らのいのちの尊厳性に最も深く目覚め立った叫びを、言い表したものであろう。
その仏陀の教言(きょうげん)に出遇(あ)い、教えに導かれ育てられて、われわれもまた、自らのいのちの尊さに目覚めて生きるものとなるのである。教えのもつ最も深い意味での利益(りやく)は、一人ひとりが、仏の本願に喚(よ)び覚まされて、最も尊いものとして自己を生きる自身の獲得ではあるまいか。そこに自ら人びとを利益して、ともに生きるという、本当の共生の生が開かれるのではないだろうか。小野蓮明 大谷大学教授・真宗学
大谷大学発行『学苑余話』「生活の中の仏教用語」より臨終(りんじゅう)
もしあなたが人の死に立ち会う仕事をされている人ならば、ぜひお願いがあります。人が亡くなったことを「ご臨終です」と言わないでほしいのです。
生きている時は死んでいないし、死んでいる時は生きていない。現代医学によって境界はあやふやになってきましたが、どちらにしてもこの「二つの時(有・無)」という基本的考え方は変わりません。しかし『浄土三部経』のどれにも死んだ時とは説かれていません。仏典に教えられつつ私たちの生をふり返ってみると、生の終わりに「臨終の時」という「第三の時」が来ることが教えられてきました。私も「臨終」とは「死んだ時」のことだと思っていましたが、実は、死に臨(のぞ)んだ生、まさしく「生きている時」のことを言うのです。そして臨終こそ真実の言葉が聞ける時だとお釈迦さまは説かれているのです。
しかし私たちの実感は、臨終はどこまでも未来でしかなく、今の事実には決してなりません。このような私たち凡夫の姿をよく知ったお釈迦さまが、凡夫でもただ一度、唯一いやおうなくいのちの事実に出会える時、死ぬ間際の時として「臨終」を説かれたのでしょう。
親鸞聖人は、本願を信じ念仏申す時が「臨終の時」であり、凡夫であっても臨終を待つことはない、と言われました。今がまさしく真実と出会える時になる。本願念仏の歴史はそんな不思議な時をプレゼントしてくれます。「臨終」とは、知らされてみれば生の終わりの時なのでもなく、実はいのちの真実からプレゼントされる「生死(しょうじ)を超えることが課題となる(有・無を離れる)唯一の時」なのです。埴山和成 はにやま かずなり・大谷専修学院指導補
月刊『同朋』2001年3月号より流行(るぎょう)
「これが君自身だ」、流行をクリエイトする人たちが、「新しい自分」を提案してきます。言われてみれば、そのように感じてしまうから不思議です。でも、ちょっと油断をしていると「その自分はもう古いよ、今トレンディなのは〇〇な君」。ボーッとしてはいられない。いつも情報に敏感になって、次から次と更新される「新しい自分」を追い求めなければなりません。
「私は私でありたい」という私たちの根源的な欲求に対して、さまざまな世界から「これこそがあなた自身だよ」という呼びかけがあります。確かに最新の流行(りゅうこう)を手に入れたい「あなた」がいるかもしれません。しかし、ちょっと、よく耳を澄ませてください。「本当の自分自身とは何か」ということに。
そのつど提案される「新しい自分自身」を追い求めることは、「私は私でありたい」という根源的な欲求の「流転(るてん)のすがた」なのではないでしょうか。
「私は私でありたい」、この欲求は、実は存在の深みに降りていく根源的な願いでこそあるのです。時がたてば色あせていくものではない、歴史と社会を、深みにおいて共にしている一切衆生(いっさいしゅじょう)という大地にその根があります。その根っこを自覚していきたい。この願いこそ普く流行するものだと親鸞聖人は私たちに教え示しています。永遠に流れ行く流行(りゅうこう)ではなく、どのような者にとっても根源の願いとして静かに流れ来る流行(るぎょう)に、しっかりと耳を澄ませたいものです。埴山和成 はにやま かずなり・大谷専修学院指導補
月刊『同朋』2002年12月号より流通(るづう)
私たちの日々の暮らしはさまざまなものによってつくられています。特にあふれるような商品を媒介にした経済社会は私たちの生き方を根本から変えてしまう力があります。その商品が右から左へと流れることが一般的に使われる「流通」です。現代は電子化が進み、流通もますます盛んになりました。
流通が盛んになればなるほど、私たちの生活は豊かで便利になるのでしょう。しかし、その反面、私たちの欲望生活がますます刺激されて、いよいよモノの世界に埋没して、自然と共生する私たちを見失うこととなります。それは「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川」と愛唱される世界が思い出のなかにしかない現実がよく現しています。
しかし、もともと仏教語としての「流通」は、釈尊の教言が全ての人々に行き渡ることを表しています。物欲に惑わされた私たちを問い、人間に立ち返ることを願う言葉です。
特に経典を解釈する場合に用いられる三分釈(経典を序分、正宗分、流通分と三つに分けて解釈する伝統的な方法論)で用いる「流通分」は、端的に、釈尊の願いがどこにあるかをはっきり表すものです。
経典を結ぶにあたって、後世にこれだけは伝えておきたいと釈尊が人間回復の根本課題を記している箇所です。文字どおり、人をして人たらしめる仏法が、いつでもどこでも誰にでも川の流れのように流れ、人々のこころに通いあうことを願うものです。商品を流通するのとは違いますね。尾畑文正 おばた・ぶんしょう 同朋大学教授
月刊『同朋』2003年6月号より