何かいやな気がして聞きたくなってまいりました
何かいやな気がして聞きたくなってまいりました

私の寺は昔から農僧であったらしく、最近まで田畑を耕作していたので、通称寺男(てらおとこ)と呼ぶ人が同居していた。

その寺男の最後になったが、貫兄さん(かんにいさん)と村の人から呼ばれて可愛がられていた人が昭和37年頃までいてくれた。私はこの人を貫兄(かんにい)と呼ぶのが常であった。少々忘れてきたところがあって、千円位から上の勘定はできなかった。母とはよく言合いをしたものである。というのは、彼は親子2代寺男をしていたので、いわば寺で生まれたという自負心があって、母と言合いをするとき「気に入らんようなら、後から来た者が出にゃ」と言って、母は後からこの寺に来たのだときめつけていたことを思い出す。

しかし、一つ残念に思ったのは、仏法が耳に入らず、法座の時は本堂に出るが、お話が始まると柱にすがって口をあけて眠るのが常であった。もっとも、お念仏を申すようになったのは50歳を過ぎたころからだったと思う。お話が始まると眠り、お話が終わると目をさまして、参詣の人と世間話に花を咲かせていた。

昭和37年だった。突然、老人ホームに行かせて欲しい、と申し出た。それは、70歳を大きく越した彼には、もはや労働にたえられないという体力の限界もあったから、一応私は承諾した。しかし、内心いつまでホームの生活についていけるだろうか、という不安を感じた。

それから5年ばかりたった初春のころである。組内のお寺で、老人を主体にした研修会が開かれたときである。全く思いがけなく貫兄さんがまいってきた。おそらく、足を運んで聞法の座についたのは、生まれて初めてのことであろう。さらに2度びっくりしたのは、本堂に出てみると、正面前列に座ってのぞき込むようにお話を聞いている姿である。お話を受けとるもようが感じとられた。

午前のお話が終わって、私の部屋にやって来て「ご院さん、私が死んだら後のことは引き受けてくださるか」と問うので、何でそんなことを問うのか、と言うと、「せんだって、園の先生があなたがここで一生を終わったら、誰が引き受けてくださるか」と言われ、「ご院さんが引き受けてくださると言いました」と言うので、それでいいさと言うと「そう言われてみて、何かいやな気がして聞きたくなってまいりました」と言うのである。

私は、これだと膝を打つ思いがした。彼は、いやな気がしたと言うけれども、私の言葉に言いかえると「俺の人生も終わる日があるのか」と目が覚めたのである。彼は初めて自分が問題になったのだ。

私には、弥陀の本願には老少善悪の人をえらばれず、との聖語が憶(おも)われたことである。彼は亡くなる前に「私は一生世間のお役に立てなかった。私が死んだら私の身体を病院に上げてください」と言って一生を閉じた。医学の資料という言葉も知らなかった彼であったが。

『今日のことば 1975年(9月)』 「露のいのちに 真如の月やどる」