3 人間の実際生活上の諸要求のために「宗教あるにはあらざるなり」

ところで「宗教の混迷時代」という場合、私は、その「宗教が混迷している」という言葉の意味がよく分からないのです。混迷しないことを宗教というのではないかと私は思っているものですから。本来、人間の根源的な要求に応答してくださる道が宗教というものでしょう。にもかかわらず、「宗教が混迷している」と言いながら平気でいられることが、不可解というか、どこか歯車が狂っているのではないか、という気がするのです。その意味で、私はまず「宗教」といわれる事柄は、いったい人間におけるどのような心根の上に、その言葉が正統に位置づけられてくるのか、ということを最初に申しておきたいのです。その時に思い起こされますのは、やはり清沢満之先生が「御進講覚書」にお書きになっているお言葉ですね。そこには、宗教とは何であるか、宗教とはいかなることに応えてはじめて宗教であるのか、ということが、非常に明確に示されております。そこで清沢先生は、「パンの為、職責の為、人道の為、国家の為、富国強兵の為に、功名栄華の為に宗教あるにはあらざるなり」(『定本清澤満之文集』396頁)と、こうまずおっしゃいます。

「パンの為」というのは、食うためですね。「職責の為」といえば、会社で働いておいでになる方ならば、より効率よく、より有意義に、というようなことでお仕事をするということ。そして「国家の為」、これは清沢先生がこの言葉をお使いになったときの厳しさと、今日この言葉を口にしたときとでは、大分違いますね。清沢先生の時代は、日本という国が近代国家になって、いろいろな問題を抱えながらも、世界の列強に肩を並べるような「国家」というものを軸にしたものの考え方が、ぐんぐんと推し進められた時代であります。ですから、その国に所属している人間は、国のために働くことがもっとも大切な義務であったわけでしょう。それに対して清沢先生は、もし「国家の為」に宗教ということが求められるならば、それは基本的に誤っていると言い切っておいでになります。そういう意味では、「国家の為」という言葉のもっている重みということは、あらためて確かめていかなくてはならない。

あるいは「人道の為」。「ひとの道に背く」、「ひとの道に叶う」というものの考え方がございますね。これも今日ではあまり現実味を帯びていない言葉ではないですか。「ひとの道に背いてるじゃないか」、「人としてはあるまじきことじゃないか」と言いますね。私も75歳ですから、結構「人の道」で教育されてきた人間でございます。ところが今日お若い方々にとっては、「人道の為」なんて言ったって、「どうでもいいこっちゃないか」と。「俺のためというならまだ分かるけれども、人の道のためになんてのは話にならんじゃないか」というふうな感覚でお受け取りになるのではないかという気もいたします。

しかし清沢先生は、そういう当時における人間の、生きていく現実の上での諸々の事柄に対する要求のために、宗教というものが位置付けられてはならない、ということをはっきりさせていこうとなさって、これをお示しになっているのですね。

一番はっきりしておりますのは、「富国強兵の為」。これは本当に今日のお若い方には、まるでもう死語でしょう。国富みて軍隊が強くなる。そのために宗教を求める。こんなことは「ナンセンスもほどほどにしとけ」ということになるのではないですか。しかし、清沢先生がこのお言葉を書き綴っておいでになった当時は、まさしく日本が「富国強兵」ということをもって国の行き先を決しようという時ですよね。大きな戦争で申しますと、いわゆる日清戦争です。明治27〜8年ですね。それから10年たって明治の37〜8年になりますと、今度は世界の列強のなかでも1、2といってもいいロシアと戦ったのですね。日露戦争。その頃に、清沢先生はこのお言葉を心に刻むようにしてお書きになっているのです。ですから、このお言葉は逆に、「富国強兵のためにならないようなものなら、むしろ国賊の歩む道だ」という厳しい反論を受けても仕方がないような言葉であったわけです。それでも先生は、当時みんな国をあげて「富国強兵のために」という道をつけられている中を歩いていく状況にあって、そのことのために宗教というものを位置付けるわけにいかない、とはっきり言い切っておいでになります。

もうひとつは、個人のことになります。「功名栄華」ですから、立身出世、そして栄耀栄華をきわめていこうと。これは人間の個人的欲望が主になっているわけでしょう。この頃、リストラの問題等いろいろな問題が起こってきておりますから、そう簡単に一緒にするわけにはまいりませんけれども、心情ということで申しますと、先の「人道の為」とか「国家の為」とか「富国強兵の為」ということよりも、「功名栄華の為」とか「職責の為」ということの方が、まだ私たちに分かりやすいでしょう。しかし、それらのことが一括して示しているのは、人間が当時生きていくうえに要請されてくる事柄を、よりよく実践してゆき、よりよく拡大していくことを目的として、宗教というものが位置付けられるならば、それは決して宗教ではない、と清沢先生は言い切られるわけです。

私は、この「宗教あるにはあらざるなり」という清沢先生の断言の仕方。この清沢先生の明確な断言が、「宗教」というものを問うていこうとするときには、言葉の表現は変わっても、私たちの心にいつまでも生きていなければならないと思うのです。そして、清沢先生によって否定された事柄が、私たちの宗教感覚のなかで、実はいろんな形に姿を変えながら作用しているのではないか。これを自分にいっぺん問わなくてはならないと思いますね。

「パンの為」から始まりまして「功名栄華のため」まで、そういう当時顕著だったものに人間の諸要求というものを代表させて、そして「そのために宗教はあるのではない」と言い切られた。こういう断言の仕方を、今日私たちが成し得ないところに、「宗教が混迷する」というような言葉を聞いても、あんまりピンとこないということがあるのではないでしょうか。私はこの清沢先生の否定なさるお言葉を拝聴しておりまして、私たちにとって「宗教」といわれている事柄は、いい加減なところで妥協しているのではないのか、と思えるのです。

4 「人心の至奥より出ずる至盛の要求の為に宗教あるなり」

それでは「宗教とは何のために求めるのか?」と言ったとき、「人心の至奥より出ずる至盛の要求の為に宗教あるなり」と清沢満之先生はおっしゃいますね。宗教は人間のどのような心根に応答すべくあるのかと問うたときに、諸々の人間の諸要求ではなくて、人間を人間たらしめる根源的な願い、「至奥より出ずる至盛の要求」。人間のこころの最も奥深いところ。「至(し)」という字は、「いたる」という字ですから、それよりも先はないわけです。それより奥はないわけです。根源的な、もっとも深いところから人間を揺り動かしている、もっとも激しくもっとも盛んな願い、その願いにはっきりと応答をする、それが宗教というものである。

皆さんは「人間はそんな深い要求を持ってなんかおりゃせんよ」とおっしゃるかもわかりません。しかし、どうおっしゃろうとも、ここにこうしておいでになって生きておられる限り、人間において、その奥には自我を中心としたどんな判断をも超えて、人間を生かしめるような、人間が生きることの真実を求めざるを得ないような、そういう「至奥より出ずる至盛の要求」が、私たちを突き上げているわけなのです。ただ問題は、その要求に気づくことができない。したがってその要求を明らかにしながら、その要求に対する正当な答えを人間に与えてくれる道、それがなくてはならない。それを清沢先生は、その「人心の至奥より出ずる至盛の要求」のためにのみ宗教はあるのである、というふうに言い切っておられます。私はこのお言葉は、いかほど時代が変わりましても、「人間にとって宗教とは何か?」ということを問うとき、決定的に重要なお言葉だと思います。

それにもうひとつ言葉が付け加えられまして、「宗教を求むべし、宗教は求むる所なし」と言い切っておられます。人間のもっとも深いところから突き上げてくるような、もっとも盛んな要求を満たすために宗教というものはあるのだ。だから人と生まれた限りにおいて、人間としてこの世に生を受けた限りにおいて、「人心の至奥より出ずる至盛の要求」を満たす道を求めなくてはならない。それが宗教だと。だから宗教は、何かのために役立つ何物かではないわけですね。人間である限り宗教を求むべきである。しかし、人間は宗教に何かを期待するということはあってはならない。これが清沢先生の宗教ということについての、きちっとした押さえです。

今日「宗教の混迷時代」と表現されている状況の真っ只中で、浄土真宗のおみのり、親鸞聖人のおみのりを聞いている者だと、自らそういうふうに自分を確かめている者同士であるならば、私たちはその「宗教の混迷」と言われる事柄を明瞭にしていかなくてはならないのではないか。その基礎になる言葉、これが私は清沢先生のこのお言葉だと思います。