5 私たちの問うべき課題
私たちは何気なく「宗教が混迷している」と言い、現象としてもいろんな形で「それも宗教、これも宗教」といって裁判沙汰になったりしていますけれども、それは清沢先生のお言葉からいうならば「宗教を求める要求」に応答しているわけではないのです。だいたい「宗教が混迷している」なんて言葉それ事態が、言語矛盾しているんです。宗教は「人心の至奥より出ずる至盛の要求」のためにあるものである限り、これは混迷しようがないのです。それにも関わらず、私たちが「混迷している」と感じて、額に縦皺寄せて「困ったものだ」と言っているのであるならば、それは清沢先生によって否定される領域に位置付けられた「宗教」という名の何物かであって、宗教それ自体ではない、と言わざるを得ないと思いますね。
それにも関わらず、「人心の至奥より出ずる至盛の要求」というものに目覚めて、真実の宗教を求めるということを為さない限り、私たちは、生涯どのような生き様をしましょうとも、真に自分の根源の要求を満たし得ないまま、「流転の生」を終わっていくというだけに尽きてしまうのではないでしょうか。
「宗教が混迷している」という言葉は、清沢先生の言葉に照らすならば、宗教というものについてあまりに根本的に無知でありすぎるのです。だから、混迷しているものを宗教だと思って「困った、困った」と言いながら、私たちは親鸞聖人の教えを聞いているから大丈夫だと、もしどこかで考えているとすると、そのことも「混迷」の中に包まれていってしまいます。よく「あれは迷信だ」と評論家風な批判がされますが、それをどこで言っているのかというと、その根拠がさっぱりはっきりしない。「迷信」という烙印は勝手に付けることができるかも分かりませんが、だからといって、「正信」がはっきりしているかというと、はっきりしていないのではないですかね。
私たちは宗教が「混迷」していくような時代に生きていることに対して、「それは誤りだ」「それは人間が間違っておるんだ」というように見ていくことは、いっぺん止めるべきだろうと思うのです。そうではなく、なぜ人間がそのように混迷していくようなあり方を取りながら、それにもかかわらず宗教らしきものに心を引かれて、それにのめり込むようにして、外から見ると非人間的だと思われるようなことに引っ張り込まれていくのかということの方を、むしろ問うていかなければならないように思いますね。そのことが今日一番尋ねなくてはならないことであるにもかかわらず、尋ねる道をどこかで見忘れてしまっているのではないかという気がいたします。
6 穢を捨て浄を欣えども
そのことを思いますとき、私が『教行信証』の「総序」のご文を通して、話をしたいと思い付きましたことの第一は、「穢を捨て浄を欣い」という言葉であります。この「穢を捨て浄を欣い」というお言葉から始まって、今日の講題にさせていただきました「専らこの行に奉え、ただこの信を崇めよ」というところまでお言葉が続いております。この「穢を捨て浄を欣う」という文字ですね。このことに私たちはもう少し心を寄せていくべきではないかと思うのです。たしかに「穢を捨てる」という「穢」とは何であるか、「浄を欣う」という「浄」は何であるか。それは「穢土」であり、片一方は「浄土」だろうと。それでお分かりになるのならいいですよ。むしろその「穢」と「浄」という言葉に代表させて、恐らく親鸞聖人は人間におけるいろんな事柄をそこに凝集させておいでになる。そして人間はとにかく「穢」といわれる現実を廃捨して、「浄」といわれる領域を求めるということが、人間の根源の願いなのだというふうに、このお言葉をお使いになったのだと思うのです。ですから、私は親鸞聖人の読み方を勝手に変えさせていただきまして、「穢を捨て浄を欣えども、行に迷い信に惑い」と詠むとよく分かるのです。穢を捨て浄を欣っているけれども、その心によって求めていくが、結局その求めた宗教、いわゆる「行・信」、その行に迷い、信に惑うていく。これがこの言葉のなかで、非常に大きな意味をもっているという実感を、私はもっているわけです。
ただ宗教を求めて、ただ宗教に振り回されて一生を棒に振るということを、もともと願っている人は一人もいないと思いますよ。そうではなくて、宗教を求めなくてはならないような要求が、自分の関心を超えて突き上げてくるのだろうと思うのです。ところが、その突き上げてくることによって求めたものが逆に、宗教を求めた心そのものを閉塞化していく。「混迷」のなかへと引きずり込んでいく。そこに私は、人間の深い悲しみがあると思うのですね。私はむしろ、そこまでして宗教らしきものに自分の身を託していかなくてはならない現代人の生き様の根っこには、まさしく「宗教を求むべし」と清沢満之先生がおっしゃったお言葉、あるいはそれをそのまま私の領解で親鸞聖人のお言葉に移しますと「穢を捨て浄を欣え」という、その願いですね。その願いをどうしても満足させていくことができない。できないにも関わらず「やめましょう」というわけにもいかないで、さらにそれを求めていく。この一見悪循環とも思えるようなことのなかに、人間の一番大きな課題があるのだろうと、昨今考えさせられているのであります。
7 奉える行、讃える信
そんなことを思いますときに、先ほどの『教行信証』のお言葉をもう一度読みなおしますと、「穢を捨て浄を欣う者、願うがゆえに行を求め、信を求めるけれども、求めたその行と信に迷惑をし続けている、そういう生き方をしている者よ!」とお呼びかけになるようにして、親鸞聖人は「専らこの行に奉え、ただこの信を崇めよ」とおっしゃるのだろうと思います。
だから先程も申しましたように、「専らこの道を行じ、ただこのことを信ぜよ」とおっしゃるのならば、それほどお言葉そのもののうえに矛盾を感じるということはないでしょう。普通は、何を行ずるか、何を信ずるか、それが宗教問題だというふうに考えますね。ところが親鸞聖人は、何を行ずるか、何を信ずるかということを、ここでは問題になさらないのです。人間が、私が、皆様方が、「専ら奉える」ような行。ただそれに帰一する、信ずることのできるような信。それを明らかにせよ、とおっしゃるのです。
私は、現代の宗教問題が論じられていることに対して、何かイラつきをもっておりましたが、この『教行信証』「総序」のご文のなかの、「穢を捨て浄を欣い、行に迷い信に惑い、心昏く識寡なく、悪重く障り多きもの、特に如来の発遣を仰ぎ、必ず最勝の直道に帰して、専らこの行に奉え、ただこの信を崇めよ」という言葉に遇いましたとき、この一言がもっている響きのなかに、現代の私たちがどこかで印象付けられてしまった宗教観というものをいっぺんひっくり返せ、いっぺんゼロに帰れと。そして「宗教は求めるべきものであるけれども、宗教には何物も求めることはないのだ」と清沢先生がおっしゃるような、そういう宗教というものをハッキリさせていかなくてはならないのだと、こういうお示しを感じたのです。
こんなふうに思いますとき、親鸞聖人は、「敢えて」というと言い過ぎになりますが、ひょっとすると親鸞聖人ご自身も、言葉の約束としては、その表現がじゅうぶん適切だとお考えにならなかったのじゃないかなぁとさえ私は思うのです。でも、その言葉を使わなければ、事柄は突き詰めることができない。その課題の中から、「奉える行」「讃える信」ということを表現なさったのです。
簡単に申しますと、われわれは行と信、お念仏とご信心、これさえあれば大丈夫だと申します。確かに親鸞聖人も、「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」(『歎異抄』第2章、真宗聖典627頁)という一言を、よきひとのお言葉として聞いて信じる、それ以外なんにもないとおっしゃったわけですし、それは「ただ念仏して弥陀にたすけられる」そういう身となれということですから、行と信でもう尽きておるわけです。
しかし「奉える行」「讃える信」ということは、行と信とを獲るということで止まるんじゃないんだ。自分の全身、自分の全霊をそこに賭けて自ら讃える行。ただひたすらに仰ぐ信。そういう行信に出遇い、それに出遇うことが実は浄土真宗なのだと、親鸞聖人ご自身のお気持ちの中でお確かめになって、そのことを「総序」のご文にお示しになったのだと、私は領解をいたしております。