1996(平成8)年 真宗の生活 6月
<「共に」の世界を願う>
五濁増のしるしには この世の道俗ことごとく 外儀は仏教のすがたにて 内心外道を帰敬せり
(『正像末和讃』真宗聖典509頁)
地下鉄サリン事件以来、オウム真理教関係のニュースがマスコミをにぎわしています。某新聞の投書欄に「オウム真理教は解脱とか悟りとかいつているが、本当に仏教なのか、そもそも宗教といえるのか」という趣旨の意見が載り、少し以前からも「仏教界は、あれは仏教でない、と言明すべきだ」との声もささやかれていました。次から次への不可解なできごとに、みないらだっているのかもしれません。
さて仏教界があまり発言しないのは(他宗派は知らず真宗に限つて言えば)私たち真宗門徒は、標記の和讃をすでに持つている、七百年前から五濁増・末法の認識の中に在る、との意識からでしよう。さらに突き詰めれば、「仏かねてしろしめして」に至るのです。
また仏教には、末法・末代という語(思想)はありますが、この世の終わり(終末思想)はありません。ですからこの世が滅びる、といわれても「滅ぶときは滅ぶがよろしく候」と、うろたえず受け止められます。まして、その滅びのとき、”○○教を信ずる者だけがたすかる”という考え方には決して立ちません。仏の教えを聞く者は、自分の事(自利)だけを追い求めず、必ず「共に」(利他)の世界を願うからです。
早く王位につきたくて父王を幽閉したあのアジャセ太子でさえ、釈尊に出遇い信を得た後、こう言います。「私が人びとの悪心を破れるなら、地獄の底で永遠の苦を受けてもかまいません」。これはまさに菩薩法蔵の「仮令身止 諸苦毒中 我行精進 忍終不悔」そのものです。
もし世界戦争が予知できるのならそれをとどめ、信者、非信者を問わずすべての人のために命をかけよう、というのが少なくとも教祖の仕事でしょう。「外儀は宗教の姿」をとる諸教の、真の内容を見抜く目が、今こそ必要と痛感します。
『真宗の生活 1996年 6月』「「共に」の世界を願う」