お盆も過ぎた九月頃です。ご門徒の家で亡くなった方がおられ、通夜にお参りに行きました。若い方が亡くなられ、空気が張り詰めた、とても悲しい通夜でした。お勤めの後、私は遺族のところに挨拶に行きました。遺族とは両親なのですが、その両親にお悔やみというか、挨拶をするために前に立った時、言葉がまったく出てきませんでした。本当に何か言おうとしても、とにかく言葉が出てこないのです。おそらく「どうも、この度は」等と言いかけていたと思うのですが、言葉が出ませんでした。それで一礼して立ち去ったということがありました。
その通夜の帰り道、ふと思いました。向こう側に少しでも光がある時、人間には言葉があるのだと。つまりどれほど辛い状況にあっても、病気なら治る可能性がわずかでもあるとか、またやり直しがきくという何かがあれば、人間は言葉を掛けて励ましたり、力づけたり、慰(なぐさ)めの言葉を言うのかもしれないと思ったのです。
反対に、まったく光が向こうに見えない時、人間は言葉を失ってしまう、言うべき言葉をもたないということを、私はその経験から学んだように思いました。
私はその場で何も言えませんでしたが、後で、本当の念仏者というか、念仏に生きている人だったら、こういう時に一緒にお念仏を申しましょうと、きっと言ったのではないかと思いました。
そこから自分なりに少し考えてみると、念仏を申すというところには、共苦共感、つまり苦を共にするとか、相手の人に共感する、悲しみを共にするというようなことがあると思います。私たちは念仏を通して、苦を共にする、悲しみを共にするという如来の心を教えられてくるということで、一緒にお念仏を申しましょうということが、受け継がれてきたように思います。
『ともしび』2011年9月号より