2001(平成13)年 真宗の生活 10月 【信心】
<いつでも、 どこでもの間法のなかに>
仏教では、「諸行無常」と教えられます。ありとあらゆる現象の、変化してやまないことを言うこの言葉が、わたしたちの「苦悩」を解くひとつの鍵語となっています。これは、わたしたちの生存の在り様言い当てた道理なのです。聞法とは、その道理を聞くことです。自分を棚にあげて、「世の中は移り変わっているなあ」と眺めていることではありません。ほかでもない自分自身の、身の事実として聞くのです。
小さなお子さんから、「ぼくのおじいちゃんは、どうして死んじゃったの?」と尋ねられて、答えに困ったことがありました。「病気で亡くなったんだよ」と答えても、それはその子の質問に答えたことにはならないと、とっさに感じたからです。「人問は、なぜ死んでしまうの?」と尋ねられたように思いました。
大人はみんな、一応は知っています。人問は、いつか死ぬものであるということを。しかし、自分がいつ、どんなかたちで死んでいくのかをだれも知りません。自分の生死のことは何も知らないのです。それなのに、明日もあさつても自分は生きていると信じて毎日を過ごしています。そして、ある日突然、死に直面すると目の前が真っ暗になるのです。
わたしの思いからすれば、わたしの死は不条理不条理です。しかし、生きている人間は必ず死ぬ、それが道理-法-です。法をそしり、自分の理屈だけで生活しているわたしの日常が、その子どもの言葉をとおして教えられました。
聞法というのは、いつでも、どこでもです。言葉(道理)にふれて、自分の根本の闇を忘れて生活している、その事実に光があたる。そのとき、いま・ここに、こうして生きていることの不思議が輝きだす。そこに、信心の成就ということがあるのです。
『真宗の生活 2001年 10月』【信心】「いつでも、 どこでもの間法のなかに」