2002(平成14)年 真宗の生活 11月 【報恩講】
<真宗の生活>
真宗の生活というとすぐ頭に浮かぶのは、五十年以上も前のころに、お年寄りたちが念仏していた姿です。「お座」や「ほんこはん(報恩講)」の昂揚した晴れやかで嬉しく懐かしい雰囲気。また仕事の合間の念仏の声々。田んぼの畦道を稲や草を担ぎ「なんまんだぶ」と小声でつぶやきながら歩いていく姿、等々。毎日の暮らしの中に常に念仏の声が響いていました。
ところが、今自分がそういう姿を子どもたちに見せているかというと、はなはだこころもとない。子どもたちにとって、真宗の生活として記憶に残るものが何もないということになると、真宗門徒としてまことに申しわけないと思います。
真宗本廟奉仕団で上山されたご門徒の方が、同朋会館での夕事勤行の後の感話で、「自分はこのご本山へ来るまではお念仏が広まらないのは本山の怠慢のせいだとばかり思っていましたが、私が家でお内仏にお参りしないからだとわかりました。帰ったら、これから家族で毎日お参りをします」、とお話をされたことがありました。結局、一人ひとりが思い立つ以外にないのでありましょう。
それにしても時代とともに、家族のあり方そのものが急激に変わってきています。しかし表面の生活のしかたは時代とともにいろいろ変わっていくとしても、信心は「一人一人のしのぎ」(『蓮如上人御一代記聞書』・聖典885頁)であり、その意味では真宗の生活はなんら変わるところはありません。また念仏の生活といっても、ほとけさんを信ずる心から自然に出てくるのが念仏であります。とすれば、どのように時代が変わろうと、変わらない信心生活・念仏生活というものがあるはずです。
それはやはり「報恩感謝の日暮らし」ということに尽きるのではないでしょうか。私たちは何の資格もなく、牛を殺し、豚を殺し、魚を獲って食べて生きています。毎日が、罪の生活です。しかも、そういう罪の自分を思うこともなく、さらには如来のご恩ということを思うこともない無残な生活をしています。ところが、その「頭の下がらぬ」者がそのまま本願の中にある。--その懺悔をとおした感謝と報恩、それが真宗の生活の根源です。「信心の行者」(『歎異抄』)といわれるように、毎日が、わが煩悩を縁として念仏にかえらせていただく修行です。別の言い方をすれば、真宗の生活はまさに内観(自己を見つめる)の生活です。時代は変わっても、現代は現代なりの真宗の生活を築いていきたいものです。
『真宗の生活 2002年 11月』【報恩講】「真宗の生活」