2003(平成15)年 真宗の生活 4月 【救い】
<信仰のない痛み>
「自分はこれまで何も信心してこなかった。こんな私がいい形で死なせてもらえるでしょうか」と、その患者さんはおっしゃったそうです。癌患者さんのケアをする研究会での発表でした。「日常生活の中でお念仏は出てきませんでしたが、まもなく死を迎えるに際して不安のあまり念仏を称えました。いかがなものでしょうか。今、このように苦しんでいるのも、信心してこなかったからではないでしょうか」ともおっしやったそうです。
このような不安と痛みは、ふだん感じることはありませんが、まもなく人生を終える時、これまでを振り返り、自分が生きてきたことの意味を考え、なぜ「私」がこのような痛みを受けなければならないのか、という思いが現れてきます。これを医療現場では「スピリチュアルな痛み」と表現しています。先の信仰のない痛みもそのひとつです。
さて、仏さまはこのような私であっても救ってくださるのでしょうか。さまざまな罪を造って生きている私たちは、臨終の時にあってはどのような行いも間に合いません。そんな私たちのために『仏説観無量寿経』には「ただ一声、南無阿弥陀仏と称えなさい」とあります。親鸞聖人はこの言葉を引いて”この一声の念仏こそが本願の救いのはたらきである”と『唯信鈔文意』で語られています。もはやあれこれ悩むことなく、往くところは定まったのです。それでも私たちは信じることができません。それもまた私たちの「罪」です。
『真宗の生活 2003年 4月』【救い】「信仰のない痛み」