2003(平成15)年 真宗の生活 8月 【お盆】
<真宗と供養>
お盆になると多くの方々が墓参りに行かれます。墓地へ行くと広いところでは何百基とお墓がならんでいます。お墓は、人々が生き、そして亡くなっていったひとつの標といえます。目に見えるお墓は、実は〈私がいる〉という事実には、数えても数えても及ぶことのないいのちの背景があることを表してもいるのです。
しかし、私たちは、その墓地の中を〈私〉の有縁の方のお墓をただ目ざし、そして他の墓を振り返ることがありません。〈私〉にとって名もなき人々を、そこに感じることはあまりありません。
親鸞聖人は「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」(『歎異抄』・聖典628頁)といわれました。「世々生々の父母兄弟」とは、この私の背後に、私がはかり知ることのない歴史があることを表しています。私は私が知る人々しか実感をもって思い浮かべることはできず、名もない人々とは、ただ私が知らないということに過ぎません。
その実感がないところにこそ、私たちの迷妄があるのでしょう。そのことをかえりみることなく、私たちは、私の「父母」の「孝養」のために供養をしたいと思っているのです。
その無限の背景をもつ私に気づき、実感なき私を知る。お盆とは、その私を知っていく仏事なのです。
『真宗の生活 2003年 8月』【お盆】「真宗と供養」