MDRI015 「あんた人間忘れたんどこで忘れたん、人間忘れたん」

19 8 9年5月22日、東本願寺白書院で行なわれた、部落解放同盟中央本部による「真宗大谷派糾弾会第二回」での、解放同盟京都府連合会の駒井昭雄書記長(当時)の言葉です。

ここで、人間を忘れていると糾されているのは、もちろん真宗大谷派教団のことであり、そこに身をおくもの一人ひとりです。「同朋社会の顕現」ということを社会的使命として掲げる大谷派教団が、自らがもっともその願いに背いているのではないかという問いかけを、「人間を忘れている」という言葉で、真正面から受けたのです。

真宗大谷派は、19 6 9年に、「難波別院輪番差別事件」を契機とした糾弾を受けて以来、度重なる差別事件・事象に対して厳しい問いかけを受け続けてきました。同朋会運動推進の歴史は、糾弾に問われ続けてきた歴史といってもよいでしょう。

では、そもそも「糾弾」とは何なのか『部落問題・人権事典』では、部落解放運動における糾弾の意味を、「全国水平社の創立以来、部落解放運動が部落差別撤廃のためにとってきた基本的な闘争形態。糾弾は、第1に差別された部落民の人間として生きる権利の主張であり、第2に差別の非を社会に訴え、具体的な事例を通して差別の根本的な解決の道筋を明らかにし、差別者のみならず被差別者も自己のおかれている社会的立場を自覚し、人間変革をとげていく教育・イデオロギー闘争の場としての意義をもつ」という言葉で押さえられています。つまり糾弾は、差別者、被差別者が共に解放されていくための闘いであるということです。そしてその淵源が全国水平社の創立にあることがわかります。

全国水平社創立の精神の基底には、間違いなく親鸞の精神が流れていました。その意味では、大谷派教団に向けられる糾弾の本質は「親鸞に帰れ」という問いかけです。それは、問いかけであると同時に、親鸞の精神に背く教団の在り方に対する悲しみであり、また大きな願いです。

その願いは、部落解放運動からの問いかけのみならず、非戦・平和を求めてやまない人たちや、性差別、「障害者」差別、民族としての誇りを取り戻そうと闘う人たち、隔離からの解放を願う人たちなど、様々な人間解放の闘いの中からも、教団に対して向けられているものです。

宗門が、人類に捧げる教団の名のもと、同朋社会の顕現という社会的使命を果たそうとするとき、「糾弾」の願いと向き合っていくということは、教団の社会的歴史的責任であり、またそこから大きな力を与えられるものだといえるのではないでしょうか。

人権週間ギャラリー「同朋会運動のこれからに向けて」