長崎教会では、原爆によって亡くなられた名前も性別も年齢もわからない方々のご遺骨を「原子爆弾災死者収骨所」へ納め、約70年に亘って毎月9日に定例法要を厳修されてきました。戦禍に巻き込まれていった全ての人々の悲しみや、人間の傲慢さが作り上げた「核兵器」がもたらす凄惨さと向き合い、その苦悩や悲しみを仏法に値う仏事として法要を営み、「非核非戦」の課題に向き合ってこられたそうです(詳しくはコチラ)。
今回は、月刊『同朋』8月号に掲載されました、亀井 廣道さん(長崎教区第1組 萬行寺前住職)にご寄稿いただきました「非戦―仏教の視点から―」をご紹介いたします。

 

1999年に建立された「非核非戦」の碑。
1999年に建立された「非核非戦」の碑。

無差別大量殺戮兵器に焼かれた人々

1945年8月9日、銀色の機体を夏空に光らせ、テニアン空港から飛来した米軍のB29爆撃機ボックスカーは、原子爆弾を長崎市の真ん中に墜としました。当時の長崎は造船所やさまざまな軍需工場が集中する戦時体制下の工業都市であり、若い勤労者が各地から集まっていました。その当時人口約24万人の町に、大量無差別殺戮兵器である核爆弾が墜とされ、約7万4千人が亡くなったのです。

わたしはその秋の11月に、爆心地から5キロほど南の萬行寺というお寺で生まれました。そのお寺は、戦時中は避難所だったのです。原爆投下直後、もの凄い閃光と爆風に襲われ、それが止んで気が鎮まる間もなく、たくさんの負傷者が軍用トラックで運び込まれて、本堂はたちまちに地獄のありさまとなったそうです。まだ助かる可能性のある人は小学校へ、「もうこれはだめだ、仏様の前で死なせてやろう」という人は寺へと運び込まれたため、本堂は重傷者の群れで埋まりました。

ガンマー線の放射熱で火傷し、あるいは爆風で吹き飛ばされた怪我人が本堂に溢れ、薬もなく布団も行き渡らない真夏に、蚊とウジ虫にたかられ、嘔吐と下痢で苦しみ、のたうちまわって呻く人々…。夜になると、「おくさん、水をください」と火傷で顔が膨れあがり、人かどうかの判別もできないような顔が闇の中からあらわれ、身重の母は腰が抜けるほどびっくりしたそうです。母は「あの人もあの水を飲んだ後、亡くなったでしょうね」と言っていました。

介抱といっても救援の婦人数人が毎日ウジ虫を取ってあげるしかなく、負傷者はその甲斐もなくそれぞれ亡くなっていかれました。病気がちな私の父が兵役に行っていたので、年老いた住職だった祖父が来る日も来る日も数知れない人々のお弔いのお勤めをして、山裾の野辺へ葬ったそうです。

子どもの頃、私はこういう話を聞いて日々を過ごしました。

 

原爆投下直後から、教区の方々が定例法要を営み、「非核非戦」の誓いを相続されてこられました。
原爆投下直後から、教区の方々が定例法要を営み、「非核非戦」の誓いを相続されてこられました。

非戦の「非」は如来の「悲のこころ」

原爆投下後、早速進駐してきた米軍は、まだ死体が散乱する浦上川沿いをブルドーザーで片づけ、爆心地のそばに飛行場を造りはじめました。散乱した死体は、生き残った住民や救援に来た人らによって集められ、爆風で飛び散った木材を燃やして荼毘に伏され、市の収骨所まで運ばれます。

爆心地から4キロほど南、西坂の丘にあった真宗大谷派長崎教務所は壊滅状態でしたが、教務所長のよびかけで集まってきた婦人会の人たちも、腹が減り疲れきった体でリヤカーを引き、おびただしい死体を集めて市の収骨所まで運びました。やがて市の収骨所が満杯になり、収骨を断られたお骨は西坂の教務所まで持ち帰ります。やがてそのことを知った市民も次第にお骨を持ち寄り、推定1万とも2万とも言われる遺骨が教務所に集まってきました。

その後、教務所はアメリカの占領政策の一環で移転させられましたが、今日にいたるまでずっと、身寄りのわからないご遺骨を前に、毎月9日に定例法要を勤め、毎月参詣される方々を前に法話をいたします。

私も若い頃はよく法話の担当に指名され、何を話そうかと苦心した経験があります。今になってみれば、それは慰霊ではなく、野辺に斃れた白骨がご縁となって阿弥陀如来の本願に遇う御仏事として私を動かしていたのですが、そのことに気づいたのはずいぶん年月がたってからのことです。

原爆投下から40年がたった頃から、教区の仏教青年会ではその当時に収骨をした人を捜して経験談の聞き取りを行い、薄れかかった記憶を掘り起こす作業に取り組んできました。そこで聞き取った内容をもとに碑文を作成して、教務所の敷地内に「非核非戦の碑」が建てられたのが終戦から54年たった1999年のことでした。

人間が己れの煩悩に基づいて考えだす知恵は、自力作善でしかありません。平和を叫びながら、なぜかそれが戦争に変わってしまう。正義を求めながらいつのまにか自分を正義にして相手を不正義として蔑み、ついには対立を生みだしてしまいます。私たち人間は愚かなものです。その人間を「必ずすくう」と誓って本願をたてられたのは阿弥陀如来の因位、法蔵菩薩です。

非核非戦の「非」は如来の「悲のこころ」と教えてくださった多くの先生にも遇えました。「己が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」。原爆投下から70年を迎え、法句経(ダンマパタ)に記された釈尊の言葉を改めて噛みしめています。

 

 

※ この記事は、月刊『同朋』8月号より転載いたしております。また、同号では「敗戦から70年再び「非戦」を誓う」をテーマに特集記事を掲載いたしております。是非ともお買い求めください(お買い求めは「tomoぶっく」へ)。